海外の小説 レイモンド・チャンドラー

最終更新日 2017年4月9日

Raymond Chandler(レイモンド・チャンドラー)について

Wikipediaのレイモンド・チャンドラー

作品

チャンドラーについて完璧なものを書くことは難しいので、少しずつ書こうと思います。

レイモンド・チャンドラーの世界|ハードボイルドの巨匠というとても優れたサイトがあります。

大いなる眠り(THE BIG SLEEP)

創元推理文庫(訳 双葉十三郎)

レイモンド・チャンドラーの長編処女作で、フィリップ・マーロウが初めて登場した小説である。

他の長編が清水俊二訳なのに対し、これだけ双葉十三郎訳になっていることもあり、若干文章から受ける印象の違いを感じる。もちろん、主人公であるマーロウもまだ若いこともあるだろう。

もう一人の登場人物である、ヴィヴィアン・リーガンもまた、魅力的な登場人物である。勝ち気で美しく、理性と危なっかしさを共存させている女性で、彼女とマーロウとのやりとりが物語を引き立てているように思う。

私が持っている文庫本には、「三つ数えろ」とかいう題で映画化されたときの絵なのか、ハンフリー・ボガートとローレン・バコールらしき絵が描いてある。しかし、映画では絶対に本の世界を越えられない。この2人もこの本の世界を表現することは出来ない。だいたい、マーロウはちびじゃないし、ヴィヴィアンは黒髪である。

'Tall, aren't you?' she said.
'I didn't mean to be.'

これがマーロウの初めての会話(原文)で、ここにマーロウの性格が端的に表れているように思う。しかし、映画ではここさえ、ちびのボガートのために改変されてしまったという。

マーロウの魅力は、投げやりで無鉄砲な一面を持ちながら、繊細な感性を持っていることだと思う。カーメン・スターンウッドがマーロウの部屋に入り込んでしまった場面の以下の部分もとても気に入っている部分の一つ。

彼女はすさまじい罵言を吐きつけた。

私は気にしなかった。私は誰に悪口を言われても気にしないことにしている。が、ここは私が寝起きしている部屋だ。すべての点でわが家らしくしてある部屋だ。何もかも私のものだ。一つの家庭を思わせる何もかもがあるのだ。わずかな本、写真、ラジオ、将棋、古い手紙。何にもないに近いが、すべての私の思い出がこもっているのだ。

双葉十三郎訳

さらば愛しき女よ(FAREWELL, MY LOVELY)

ハヤカワ文庫(訳 清水俊二)

レイモンド・チャンドラーの長編第二作である。

チャンドラーの長編では、何といっても「長いお別れ」が有名だと思うが、私はどれが一番好きかと言われたら、「さらば愛しき女よ」と「長いお別れ」のどちらか迷う。マーロウという主人公の魅力となっている意志の強さ、人に対する感傷的な見方、繊細な感性といったものがこの作品に現れていると思う。

この作品にはアン・リアードンという女性が登場する。アン・リアードンは、フィリップ・マーロウの物語に登場する女性の中でも特別な役割を持たされているようで、他の短編にも登場する。私自身も一番お気に入り。チャンドラーの読者の間でも、プードル・スプリングス物語が発表されるまで、マーロウが結婚するならアン・リアードンだろう、と思われていたという話を聞いたことがある。

また、端役だがレッドという男が登場するがこれまた魅力的な登場人物。マーロウも「立派な男」と評している。

以下の部分は28章の最後の部分で、マーロウが麻薬で身体をぼろぼろにされ、アン・リアードンの家に何とか辿り着き、泊まっていくようにというアンの好意を断ってアパートに送ってもらった直後の場面。一人暮らしの男の生活とマーロウの不屈の意志を感じさせる部分で、一人暮らしのとき(今もそうだが)何度も読み返した所。心身ともに疲れきって帰って来て、再び次章から再び始まるきつい仕事へつなぐ部分にある静かなひとときの描写である。

---牛乳の壜が裏口のドアの前においてあった。裏の非常口に、赤い電灯が光っていた。通風装置はあったが、料理場の匂いがどうしても消えなかった。私は人々が眠っている世界へ帰って来たのだ。眠っている猫のように危害のない世界に・・・。

私は部屋に入って、灯りをつける前に、しばらくドアによりかかったまま、部屋の匂いを嗅いでいた。塵とタバコの匂い。男が住んでいる部屋の匂い。

私は服を脱いで、ベッドにもぐりこんだ。厭な夢を見て、汗をかいた。しかし、朝には、一応、一人前の人間になっていた。

清水俊二訳

もう一つ好きなのは、アン・リアードンとフィリップ・マーロウが最後に語り合う場面を描いた40章で、ここの章だけを何回も読んでいる。章の最後は、女性にこんな事を言われたら、男冥利につきるな、というもの。清水俊二の日本語訳のほうが好きだが、ここについては英語で。

'You're so marvellous,' she said. 'So brave, so determined, and you work for so little money. Everybody bats you over the head and chokes you and smacks your jaw and fills you with morphine, but you just keep right on hitting between tackle and end until they're all worn out. What makes you so wonderful?'

'Go on,' I growled. 'Spill it.'

Anne Riordan said thoughtfully: 'I'd like to be kissed, damn you!'

余談になるが、清水俊二の訳は結構「超訳」なのか、あるいは清水俊二もアン・リアードンに思い入れがあるのか、同じく40章のある段落を比較してみると・・・

'You can have mine,' Anne Riordan said, and got up and brought her untouched drink over to me. She stood in front of me holding it, her eyes wide and a little frightened.

「私のをあげるわ」アン・リアードンは立ち上って、ほとんど減っていないウィスキーのグラスを手に捧げながら、私の目の前に来て、立った。目が大きく見開かれて、美しかった。

清水俊二訳

最後の「美しかった」というのはどこから来ているんだろう?

高い窓(THE HIGH WINDOW)

ハヤカワ文庫(訳 清水俊二)

レイモンド・チャンドラーの長編第三作で、清水俊二としては最後の訳となった。清水俊二の訳を、戸田奈津子が引き継いで完成させている。

初めて読んだのは高校生の時で、チャンドラーの作品の中では一番最初に読んだ作品。高校生の頃は、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物から始まり、ヴァン・ダインのファイロ・ヴァンス物、エラリー・クイーンのエラリー・クイーンやドルリー・レーンのようなものを読んでいたので(なんて正統な入り方だ!)、この「高い窓」を読んだところ、全く異質な感じがして、どこがおもしろいのかわからなかった。何か明確な謎が最初に提示され、明確な解決が論理的に与えられる、ということでは全くなく、何の関連もないような複数のストーリーがばらばらに進んでいく。解決といっても、謎が解けたことによる解決ではなく、謎が解けたことによる登場人物達の力関係のバランスの変化による解決である。

不思議なことに、大学生になって、社会人になって読んでとてもおもしろいと思った。作品を受け止める、私という人間の、時間の経過によって積み重ねられたものが感応するのだと思う。

チャンドラーの作品、特に長編に言えることだと思うが、全体のストーリーより何よりも、ちょっとした一場面、一場面が印象的である。心の奥のどこかの、普段は意識に上って来ない感情の「引っ掛かる」場面が、すばらしい所だと思う。

高い窓では、マーロウの興味の対象となるような、あるいはマーロウとの駆け引きを通じて物語全体に華やかさをもたらすような女性の登場人物はいないように思う。あえて言えばマール・デービスだろう。マールは、他の作品の女性登場人物のように魅力があるように描写されておらず地味で、マーロウと軽妙な会話が出来るわけではない。マーロウ自身も対等な男と女というよりも、父親的な対応をしているようにさえ感じられる。しかし、物語後半の、マールと別れるこの一場面だけは物語全体のそういった傾向をひっくり返すくらい印象的な場面となっていると思う。

私が帰る時、マールはバンガロー・エプロンをつけ、パイの皮をこねていた。彼女はエプロンで手をふきながらドアまで出てきて、私の口にキスをして泣き出し、家の中に駆けこんだ。ドア口にはだれもいなくなったが、やがてそこに彼女の母親が顔いっぱいに家庭的な微笑を浮かべて現れ、私が車で去るのを見送った。

家が視界から消えるにつれて、私は奇妙な感じにとらわれた。自分が詩を書き、とてもよく書けたのにそれをなくして、二度とそれを思い出せないような感じだった。

清水俊二訳(戸田奈津子訳?)

マーロウ自身の感傷的な側面も、それまでの長編より色濃く現れるようになる。チャンドラーの作品は後期になるほど、マーロウ自身の年齢も高く設定されていくこともあり、秋のような哀愁が深まっていくように思う。以下の部分はマーロウが事件との関わりを全て終わらせ、家で一人でチェスの棋譜をたどった後の場面。

それが終わると、私はしばらく開いた窓に耳をすまし、夜の匂いをかいだ。それから、グラスをキッチンへ持って行って、洗ってから冷たい水を満たし、流しのところに立ったままそれを啜り、鏡の中の私の顔を見つめた。

「おまえとキャパブランカ」と、私はいった。

清水俊二訳(戸田奈津子訳?)

短い文章の中に視覚、聴覚、嗅覚、触覚を記述することで、雰囲気がいきいきと伝わる表現になっていると思う。

NEW!湖中の女(THE LADY IN THE LAKE)

ハヤカワ文庫(訳 清水俊二)

レイモンド・チャンドラーの長編第四作。実際には「高い窓」と随分ダブって書かれていたらしい。同名の中編を下敷きにしているとのこと。

"THE LADY IN THE LAKE"というタイトルは、事件の内容そのものを示しているが、"THE LADY OF THE LAKE"という別の作品にちなんでいるという話も聞いたことがある。

「長いお別れ」に続いて再読したが、随分きちんと「推理小説」だという印象を受けた。逆に言えば、「長いお別れ」がそこから逸脱しているとも言えるが。

まず、依頼人がマーロウに事件を依頼し、マーロウは関係者にきちんと聞いて回って捜査をする。そして、犯人の前で、「トリック」を暴く。そして、物語が終わる。無駄がない。様式通り。そうした中に、フィリップ・マーロウ物語らしさがぽつん、ぽつんとある。美しい街であっても、どうしようもない人間や、悪徳で儲ける人間がいて、警察は腐敗していてまったくあてにならない。そういった中で、いかに誇りを持ち続けて、正義を行うのか。今回は再読で、「トリック」はなんとなく覚えていたので、むしろディテールにも注意を払って読むことが出来た。

「高い窓」もそうだが、本作品が刊行されたのは戦時中であり、細かい描写の中に、それを感じさせるものがあるし、物語全体も浮ついた雰囲気はなく、やや暗いトーンとなっている。フィリップ・マーロウと対峙する魅力的な女性も明確には出てこない。あえて言えば、アドリエンヌ・フロムセットだろう。ただ、その関係には「推理小説」として無駄な部分は出てこない。

たった1つ、とても印象的なシーンがあるが、これはアドリエンヌ・フロムセットに対してだけ、ということではなく、自分の人生に対する感傷と読めるがどうだろうか。ちょっと長いが、引用してみる。

この手紙を書いたエレガントな手のようなエレガントな筆跡だ。私は手紙をわきに押しやって、もう一杯飲んだ。気分が少々おちついてきた。デスクの上のものを整理しようとあっちこっち動かした。手が重くなって、ほてって、動かすのがめんどうになった。指を一本、デスクの角からデスクを横切って走らせ、埃りを拭ってできた一本のすじを見つめた。指についた埃りをじっと見て、拭き落とした。腕時計を見た。壁を見た。何も目に入っていなかった。

ウィスキーの壜をしまって、グラスを洗うために流しのところにいった。グラスを洗ってから、手をゆすぎ、顔を冷たい水で洗って、鏡を眺めた。左の頬の赤みはなくなっていたが、少々腫れているようであった。たいしたことはないのだが、もう一度気持ちをひきしめるだけのききめはあった。髪をブラシで梳きすかし、白髪がまじっているのを見つめた。白髪はかなりふえていた。頭髪の下の顔は病人のようだった。私はその顔が全然気に入らなかった。

私はデスクにもどって、ミス・フロムセットの手紙をもう一度読んだ。板ガラスの上で手紙のしわをのばして、匂いを嗅ぎ、もう一度しわをのばして、上着のポケットにしまった。

じっと座ったまま、あけ放した窓の外で夕暮が次第に静かになっていくのに耳をすました。そして、きわめてゆっくり、私もいっしょに静かになっていった。

清水俊二訳

直接的な感情が書かれているわけではないが、動作のディテールや、状況描写から、心に迫るというか、独身男の私としては、わかるよなあ、と身につまされる印象的なシーンだと思う。

2016年タンザニア旅行中にKindleで再読。全体的な流れは覚えていたものの、最後はこんな終わり方だっけ?という感想。まあ、「最後の部分がちぎれていても読みたくなる」のがハードボイルド小説な訳ですが。上のアドリエンヌ・フロムセットに関する記述以外にもなかなか印象的なシーンが。

「君の態度が気に入らんね」と、キングズリーはアーモンドの果を砕いてしまいそうな声でいった。

「かまいません」と、私がいった。「そいつを売っているわけではないんで」

清水俊二訳

これは有名な台詞ですね。

彼女はかるくうなずいた。「そういうわけよ。それから、あなたの名、なんといいましたっけ?」

「バンス」と、私はいった。「ファイロ・バンスです。」

清水俊二訳

これはもちろん、S.S.ヴァン・ダインの推理小説の主人公ファイロ・ヴァンスのことを言っている。湖中の女が出版されたのは1943年で、ヴァン・ダインが亡くなり、最後の作品であるウィンター殺人事件が感応されたのが1939年だから、当然読者はそれを知っているという前提のシーンだろうか。

「いいかげんになさい」と、彼女はいった。

私はにやにやした。

「私をどんな女と思ってるの?」と、彼女は切り口上でいった。

「私は登場するのが遅かったんで、いえないな」

彼女は顔を赤くした。

清水俊二訳

ミス・フロムセットとのやりとり。マーロウが男との関係について聞き出そうとするシーン。にやりとさせられる。

私は二十五番通りに住んでいる女を知っていた。なかなかいい通りだった。女は気立てがよかった。そして、ベイ・シティが好きだった。

清水俊二訳

さらっと書かれているので、知らなければ読み流してしまうところだが、もちろんこれは「さらば愛しき女よ」に搭乗するアン・リアードンのことを言っている。

「警察の仕事にはいろいろと問題がある。政治によく似ているよ。人格識見、申し分のない人間を必要とする仕事なんだが、そういう人間を魅きつけるものが何もない。だから、手持ちの駒を動かして仕事をしなけりゃならないんで、こんなことが起こるんだ。

清水俊二訳

部下が乱暴な取り調べをした後の、ウェバー警部の言葉。警察はともかく、政治については70年後の日本でもあてはまるような気もする。

長いお別れ(THE LONG GOODBYE)

ハヤカワ文庫(訳 清水俊二)

レイモンド・チャンドラーの長編第六作で、ページ数も多く、代表作にもよく挙げられる作品。

久しぶりに通して読んだが、もしかしたら通して全部読んだのは2回目かも知れない。しかし、「シーンがプロットより優先する」ハードボイルド小説なので、部分部分で読み返したことは数知れず、本はぼろぼろになっている。それほど印象的なシーン、名台詞が盛りだくさんの作品となっている。

そうであっても、あえて通して読むと、テリー・レノックスという「友人」との出会いから別れまでを、完結した1つの物語として構築している、ということがあらためて感じられる。

よく知られているように、チャンドラーは、それまでに書いた中短編を再構成することによって長編を形作っていくから、別の作品で書かれたシーンが長編に登場すると言うことがよくある。しかし、本作品はそれを感じさせない全体の一体感と構成の緻密さを持っていると思う。

推理小説として見れば、物語の終盤近くなり、謎が解けたところで、あるいはアイリーン・ウェイドが命を絶ったところで終わってもおかしくない。しかし、そこからも物語は続き、メンディ・メネンデスが現れ、リンダ・ローリングが現れ、そして、シスコ・マイオラノスが現れる。これは、推理小説の形を取りながらも、本当の主題は、フィリップ・マーロウという一人の男の生き方を語ることであり、テリー・レノックスとの出会いと別れを描くことであることの証左のように思える。

本作品の中でのフィリップ・マーロウの年齢設定は、40歳くらいなのではないかと思う。だから、「男の生き方」として本作品をとらえた場合、読んでいてしっくりこないところがあっても、それは多分今の私にはまだわからないということで、もう少し年を重ねると意味がわかるのだろうとも思う。なぜなら、以前読んでしっくり来なかったが、今回読んでみてぴたっとはまるところがあるから。チャンドラーが再読に耐えるのは、このように自分の人生経験を踏まえてから読むと、そのたびに違った感じ方ができるからではないかと思う。

フィリップ・マーロウは本作品の中では、丘の中腹にある一軒家に住んでいるが、生活のシーンが事細かに描かれているのも他の作品と比較した特徴だと感じる。これは、本作品を執筆した時期、チャンドラーの妻の体調が思わしくないために、チャンドラー自身が面倒を見、そして家事を行わなければならなかったことが影響しているのではないと思う。

家に買って、シャワーを浴び、ひげを剃り、服を着かえると、やっときれいなからだになった気がした。朝飯を作って食べ、食器を洗い、台所と裏のポーチを掃除してから、パイプにタバコをつめた。

清水俊二訳

マーロウがこの事件に首をつっこむことになったのは、いつものように依頼人に頼まれて、というだけではない。巻き込まれた、という面はあるが、自ら進んで巻き込まれたところもある。それは、非常に感傷的なテリーへの友情だろう。

やがて、コーヒーの湯気が立ち上らなくなり、タバコの煙も消えて、灰皿の端に吸い殻だけが残った。私は吸い殻を流しの下のゴミ入れに捨てて、コーヒーをあけると、カップを洗って、片付けた。

それだけだった。五千ドルのためにすることにしては、十分ではないような気がした。

清水俊二訳

このシーンでも、コーヒーを入れて、タバコに火をつけるだけで終わらず、片付けるシーンまで描写していることが生活感たっぷりなのだが、よりいっそう印象的になっていると思う。

私たちは別れの挨拶をかわした。車が角をまがるのを見送ってから、階段をのぼって、すぐ寝室へ行き、ベッドをつくりなおした。枕の上にまっくろな長い髪が一本残っていた。腹の底に鉛のかたまりを飲み込んだような気持ちだった。

こんなとき、フランス語にはいい言葉がある。フランス人はどんなことにもうまい言葉を持っていて、その言葉はいつも正しかった。

さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。

清水俊二訳

「彼は向こうをむき、部屋を横切って出て行った。私はドアが閉まるのをじっと見つめた。模造大理石の廊下を歩いていく足音に耳をかたむけていた。やがて、足音がかすかになり、ついに聞こえなくなった。私はそれでも、耳をかたむけていた。なんのためだったろう。彼が引き返してきて、私を説き伏せ、気持ちを変えさせることを望んでいたのであろうか。しかし、彼は戻ってこなかった。私が彼の姿を見たのはこのときが最後だった。

清水俊二訳

リンダとの別れ。テリーとの別れ。出会いから始まったこの物語は、終盤にマーロウがまた元の孤独な世界に戻っていくさまを描いて終わる。この最後の部分は、チャンドラーが何度も書き直した部分だそうだ。

さて、最近知ったことだが、村上春樹が本作品を翻訳するとのことで、「ロング・グッドバイ」というタイトルで、すでに脱稿しているという。村上春樹とチャンドラーというのも私としてはどうも不思議な組み合わせに感じるし、チャンドラーの長編の中で本作品を選んだ、というのもどんな意図なのか気になるところ。どんな仕上がりになるか、楽しみな反面、心配でもある。日本語の場合、一人称をどう訳すかだけで雰囲気が全く異なってしまう。清水俊二訳は、会話では「僕」であり、それ以外では落ち着いた「私」である。村上春樹訳ではどうなるのだろう。

ただ、清水俊二訳は、彼の訳した時代もあり、また映画出身者ということもあるため、意訳になっている部分やとばしている部分もあるらしいが、村上春樹によると、村上訳ではそのあたりをきちんと訳していると「ひとつ、村上さんでやってみるか」でも書かれている。ちなみにそこでは、上述の「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ。」が、原文では"To say good-bye is to die a little."となっていることが例に挙げられている。

2015年には放送大学でレイモンド・チャンドラーのロング・グッドバイ(長いお別れ)を読むという面接授業も受けてきました。

フィリップ・マーロウのダンディズム

出石尚三

集英社

2006年11月読了

これはチャンドラーの作品ではなく、出石尚三というファッション関係の人が書いた、チャンドラー作品を服飾の面から解説した本。チャンドラーのフィリップ・マーロウ物に出てくるファッションのキーワード32について解説している。ハードボイルドとファッションという組み合わせは意外だが、なかなかおもしろかった。

シャーロック・ホームズの愛好家をシャーロキアンと呼び、作品中の詳細や矛盾などを必死に研究していると言うが、ハードボイルドの場合、「プロットよりシーンが優先する」ということもあり、そう言った細かい議論にはなじまないと思っていた。物語の性格上、酒に着目して「ローズ社のライムジュースで作ったギムレットが」なんて話はよく出るが、それすらも個人的にはどんなものかなあ、と思っていた。ましてや、ファッションというのは相当変わった着目点だと思った。

そのため、ファッション評論家が無理にこじつけてフィリップ・マーロウ物を解説しているのではないかという予見があった(多少、そういった面もあるが)。しかし、読んでみると、チャンドラーの作品では服装が極めて重要な役割を果たしており、こだわって書かれているのだ、と納得させられてしまった。確かに思い出してみると、人物の描写が服装で始まっていることが多い気がする。

まず、レイモンド・チャンドラー自身が極めて服装に対して知識があり、こだわりがあったらしい。そして、フィリップ・マーロウが活躍した時代というのが、紳士服の端境期とも言う時期で、現代の紳士服の基本が確立した頃なのだそうだ。

チャンドラーの物語は、「男の生き方」として普遍性を持っているからこそ、今でも人気があるのだと思う。しかし、一方で、国や時代が違うため、どうしてもただ読んだだけでは意味が完全に伝わらないところが出てくるのはやむを得ない。今まではそれをあまり感じていなかったが、この本を読んで、確かに一部しかわかっていなかったという気がした。

全体の中では、「手袋」の項目が特におもしろかった。「高い窓」では、レズリー・マードックという男について次のような描写がある。

白いピッグスキンの手袋の手もとを折り返して、長い黒色のシガレット・ホルダーを持ち、テーブルの上に散らばっている雑誌、数脚の椅子、床の汚れた敷物が作り出しているあまり金になっていそうもない空気に鼻をうごめかしていた。

「高い窓」清水俊二訳

これはこういう意味らしい。まず、サマー・スーツという夏の服装に手袋をしているというのは、しゃれ者という意味。さらに、白は正装用であり、かなりドレス・アップしていることがわかる。また、「手もとを折り返して」というところは、手袋には正式な脱ぎ方というものがあり、剥いてから外すのだそうだ。「彼はそれを知っている」ということであり、ここまでの描写で、「金持ちの鼻持ちならない道楽息子」と言った人物像をかなり補強している・・・ということ。普通に読んで、こんなことまでわかります?

しかし、わざわざ「折り返して」と書いている以上、チャンドラーは意図的に書いているとしか思えない。

単なる状況描写と思っていた部分にこんなに意味が込められていたのか、という新しい発見があった。

P.S.この出石尚三という人、「妻とのトラブル」でサバイバルナイフを所持していて銃刀法違反で逮捕されてしまいました。情けない・・・

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