最終更新日 2015年11月2日
週末を利用してそれぞれ広州旅行、ハルピン旅行、北京旅行、大連旅行、上海旅行に行ったほか、ツアー旅行で東トルキスタン旅行、河西回廊旅行として行ってきました。よく言われることですが、いろいろ海外旅行に行っていると、中国は日本から驚くほど近いことを感じます。
共産党の一党独裁国家と言うことでネットも制限されていて緊張しますが、日本からすぐに行けるし、地方による違いがおもしろいし、食べ物はおいしいです。古くからの歴史を感じさせる一方で、近現代に受けたいろいろな国の影響が残っていますし、特に東北地方は日本による建築も残っていて日本人にとっては特別な場所でもあります。そして、祖父・父の親子が満州引き揚げ者である私にとっても特別な場所です。
行く度に新しくできた地下鉄、空港、新幹線を目にし、古い街を壊して新しいビルを建設しているのを見ます。時間と共に大きく変わっていくことは驚くばかりです。日本の高度成長時代もこんな感じだったのでしょうか。
また、極端に広い国土に巨大な都市がいくつも点在し、それぞれ街並みも違えば、食べているものも違い、言葉も異なります。紀元前からの古い歴史を持っていますが、シルクロードの国々を旅行してから、中国を訪れると、近現代だけではなく、古代から西域や異民族の影響を受けていることが分かります。行けば行くほど、「中国」、「漢民族」というものは一体何を示しているのか分からなくなってきます。
国力が大きくなると共に、その振る舞いが他国との緊張をもたらしています。日本とも政治的な対立が頻繁に生じるようになってきて、好き嫌いがはっきりする国ではあるでしょう。ただ、何回か行ってみて私が感じるのは、この国の複雑さと多様性であり、好きであろうと嫌いであろうとこの国をよく理解することが隣国である我々日本にとって重要であり、さらには我々自身を理解することにもつながるのではないか、ということです。
国名 | 中華人民共和国 |
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国土 | アジア大陸の東部に位置する。 |
気候 | 熱帯、温帯、冷帯、砂漠気候、ツンドラ気候、高山気候と多岐に亘る。 |
人口 | 約133,431万人(2003)。 |
民族 | 漢族92%、ほかウイグルなどの少数民族。地域によっては少数民族が多数であるし、そもそも「漢族」というものが何かはっきりしない。 |
宗教 | 仏教、道教、イスラム教、キリスト教ほか。 |
首都 | 北京 |
経済状況 | 一人当たり国内総生産5962ドル(PPP,2008)。 |
時間 | UTC+8。日本より1時間遅れている。サマータイムはない。ただし、全土北京時間というのはさすがに無理があり、西方の新疆ウイグル自治区では、非公式に北京時間より2時間遅れた時間が使われることがある。 |
普通語と呼ばれる標準語以外に漢族であっても地域ごとに言葉が異なる。これは政治的に「方言」と称されるが、実際には異なる言葉のようだ。北方方言をもとにした「普通語」が広く通じる。
日本語はもちろん、英語も通じないので、言葉を覚えようとした方が、おもしろい。ただし、書いてあることは容易に意味が分かるものの、発音は難しい。
こんにちは | ニイハオ |
ありがとう | シエシエ |
新疆ウイグル地区では、ウイグル人が人口の半数近く、漢族を上回っているため、基本的に表記はウイグル語と中国語の併記になっている。両者の大きさの関係が、なんとなくその町がウイグル人が主か、漢族が主かを表している気がする。
ウイグル語はテュルク系の言語で、同じテュルク系言語の西トルキスタンのウズベク語などとかなり共通しているようだ。ただし、ウイグル語はアラビア文字を使って記述する。数字はアラビア語でのインド数字と違ってアラビア数字のようだ。ただし、Pの音などアラビア語にない音は独自の文字が拡張されている。文字は同じでも言語は全く異なるので、コーランは読めても意味は分からないそうだ。
こんにちは | ヤヒシムスズ (イスラム圏共通の「アッサローム・アレイクム」も使われるが、ちょっと年配の人が使うイメージらしい。) |
ありがとう | ラフメット (ラは巻き舌。ラフマットとラフメットの中間ぐらいに聞こえる。) |
さようなら | ハイル・ホシ |
人民元(RMB)。\と表示されたりしていてびっくりする。ほとんどお札で用が足りるが、とても古くて汚い紙幣が混じっている。1元はコインも見るが、硬貨は都市部でしか流通していないという話があり、新疆ウイグル自治区のカシュガルの露店で1元コインを使おうとしたら断られた。
広州白雲空港の両替所では、T/Cの両替はダメだった。広州の町中にはATMが多数あり。
やっぱりカードが一番レートが良いようですね。同じ空港で同じ時の利用でも、レートが若干違うのは時間が少しずれているから?
日付 | 場所 | レート |
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2009年6月27日 | 広州白雲空港の両替所で現金を両替 | 1RMB=\15.038 |
2009年6月29日 | 広州白雲空港の免税店でカード | 1RMB=\14.319 |
2009年6月29日 | 広州白雲空港の免税店でカード | 1RMB=\14.322 |
2011年7月3日 | Holiday Inn Harbin City Centreでカード | 1RMB=\12.471 |
2011年9月16日 | 北京のATMでキャッシュカード | 1RMB=\12.446 |
2011年9月17日 | 北京のATMでキャッシュカード | 1RMB=\12.446 |
2012年8月19日 | 大連の旅行代理店 | 1RMB=\12.739 |
2013年9月22日 | 上海のレストランでクレジットカード | 1RMB=\16.554 |
2013年9月22日 | 上海のATMでキャッシュカード | 1RMB=\16.770 |
2013年9月23日 | 上海のホテルでクレジットカード | 1RMB=\16.510 |
いらない。すばらしい。
観光で15日以内なら不要。普通の国みたいに3か月ではないみたいです。
ただし、新疆ウイグル自治区などに行くと、警察やホテルが日本人が短期ならノービザで良いことを知らないことがあるようだ。
ホテルからインターネットにつなぐと、TwitterとかFacebookとかGoogleはつながらない。その他、いろいろつながらないが、エラーを起こすというのではなく、何となくタイムアウトするといったことになるため、イライラする。ローミングの携帯電話経由だと問題ないが。
中国南部、広東州の都市で珠江沿いにある。「食は広州にあり」という言葉で有名。広州旅行として2009年6月27日-6月29日の3日間滞在した。
初めての中国。
広州では香港と同じ広東語だが、相手によって普通語も広東語も両方話しているように見える。
こんにちは | メイホウ |
会計お願いします | マイターン、ンゴイ |
ありがとう、すみません、おねがいします | ンゴイ |
2009年6月27日(土)、前日まで仕事で、かつ飲み会だったが早起きし、朝の中央線を通る成田エクスプレス3号で吉祥寺を6:19出発。成田空港まで直通で行くのは初めて。
成田空港第1ターミナルから9:50のNH923便で広州に出発し、広州白雲空港に13:25到着。
着陸前の風景を見ると、川があり緑が多く亜熱帯といった景色だが、街に近づくとひたすら高層ビルが並び、巨大な都市のように見える。住宅も郊外には小さな家が見えたが、中心に近づくとひたすら高層マンションのようだ。建坪率という概念がないせいか、四角く同じ大きさに区切られた区画にぴったりの四角い高層ビルがびっしりと建ち並んでいる。
着陸後の新型インフルエンザの検疫はすごかった。飛行機の中で配布された検疫問診票を書いた上で、着陸後、飛行機の座席に座ったまま、白の防護服に身を固めた検疫官が周り、一人一人ハンディ型のサーモグラフィのような機械を額に向けられ、体温測定していく。
私の近くにいた男性は、体温が高いということで引っかかってしまい、マスクをさせられ、通常の体温計で体温を測られていた。英語ができないようで、客室乗務員が来て、酒を飲み過ぎたからではないか、と話していたが、結局降りるときに別のところに連れて行かれてしまった。入国手続後に見かけたので、結局大丈夫だったようですが。
入国手続も共産国ということで緊張したが無難に終了。両替所があったのでT/Cを現金化しようとしたら、現金だけ、と言われたので1万円を両替。
空港から外に出ると、室内プールの中のように蒸し暑く、雨が降っていた。バスに乗って市内に向かった。
今回はグループ旅行なので5星ホテル。
バスを降りて少し歩くとある大きなホテルで、つながっているものの複数の建物でできているようだ。
チェックインは手続にちょっと時間がかかり、覗いてみると何やらパスポートは全部コピーしたりしているようだった。
室内はさすがに豪華で、シャワーやトイレも立派だった。
真新しい地下鉄が走っていて便利。切符ではなく、コインのようなトークンを買う。これを自動改札に入れる・・・のではなく、触れてはいる。ICカードか何かのようだ。出るときには回収される。
タクシーも多く、安くてかつ安心して乗ることができる。
とにかくひたすら食べまくり。
2009年6月27日(土)、ホテルにチェックインした後、観光開始。まずは徒歩で中山紀念堂まで。
これは孫文を記念して建てられた建物で、1929年着工、1931年竣工。中は大きなホールで、それを囲む廊下の壁に歴史の天字がある。
広州市越秀区応元路13号、電話83548674
中山紀念堂を出て、近くの「北極村酒楼」で夕食。この店は広東料理では無く、東北料理の店らしい。ビールを頼み、いろいろ頼んだ。特に焼き餃子はいろいろ種類がある。とにかく出てくるもの出てくるものおいしかった。さらに値段もかなり飲んで食べて4人で3,000円くらいだった。非常におすすめ。
英語のメニューも帰り際、精算して出ようとしたら、日本語で書かれた名刺大のカードをくれた。日本人、多いんでしょうか。
二日目の2009年6月28日(日)は、朝起きてホテルからタクシーで陶陶居酒家へ。ここはかなり大きな店で、1つのビルのようになっている。上の階に行き、丸テーブルで食事。言葉が分からないので、実際に並んでいる飲茶を選んで頼んだが、非常においしく、朝からかなりたくさん食べてしまった。
この手のようなものは鶏の手らしく、今回の旅行でよく見た。骨張っていて、手のひら部分以外あまり食べるところがない。最初はぎょっとしたが、だんだん慣れてしまった。ただ、中華料理の大きくて滑る箸だとうまくつかめず、食べにくい。
街中に市場がある。生鮮食料品を扱っているところはかなり生々しいという感じで、中華包丁で魚の頭をばんばん切り落として血まみれになっているところもあった。写真のところは本当にたくさんの種類の乾物のようなもの、香辛料のようなものを売っている。
この市場の前は大きな道路で、車がばんばん走っている。
珠江沿いの州だが、イギリス、フランスの租界になっていた地区らしく、洋館が並んでいる。きれいな町並みではあるが、そんなに観光地となっている様子でもなく、手入れが止まってしまったと思われる建物もあった。
広州の街には、新型インフルエンザの予防に関するポスターが非常に多い。空港での検疫も含めて、日本よりもずっと神経質になっているようだ。ただし、マスクをしているような人はいない。
科挙などのため故郷から広州に出た人を同族で支えるためにできた書院と呼ばれるもののうち、大きなものらしい。ここはさすがに観光地っぽく、欧米系の外国人もいた。
仏教寺院。入口にある阿形吽形の像も、派手な色彩で顔もコミカルなように思える。姿勢もまるで中国拳法のよう。
昼食は地下鉄と徒歩で広州酒家まで。行く途中で夕立のような雨になった。
この店も老舗でとても有名なところらしい。混んでいて、入ってもすぐに座れず、整理券のようなものを渡された。フロアによってメニューというかスタイルが違うらしく、上階の比較的空いているところに行ったら、女性の店員に「ディムサムはダメだよ。」と言われた。「ディムサムって何?」と聞いたら、「えー!ディムサムって何だって!?」と反応されてしまったが、漢字で見たら「点心」のことでした。これぐらい知らないといけないですね。
となりのおじさん達のグループが飲んでいるのを見て、あれと同じものを、と注文したら来たのがこの酒。白酒(バイチュ)というらしい。トルコのラクみたいに強くてクセがあるが、みんなで空けてしまい、昼からとても酔っぱらってしまった。
昼食後は西漢南越王墓博物館へ。そんなに広い博物館ではないです。
日が暮れてからは、ホテルからタクシーで天字船乗り場というところへ行ってナイトボートを体験。陽気なタクシーの運転手で、川を指して「ツーチャン、ツーチャン」と説明してくれた。珠江はツーチャンと発音するらしい。
タクシーを降りるといろいろ声をかけてくるが、よく分からないので切符売り場で80元で切符購入。
一応船のチケットは「3楼第301卓」とフロアと席が決まっているようだが、雨が降っているせいか、屋上席だった我々も下の船内に案内された。出発するとインスタントコーヒーのようなコーヒーと果物がサービスとして出てくる。
途中で雨が上がったので、屋上に出て本来の席に移ることができた。
夜景は香港に似ている印象。建物ももちろん、橋も派手派手にライトアップされている。というか、すれ違う船まで日本人の感覚で言うと悪趣味とも思えるほど派手にライトアップされている。イカ釣り船じゃないかというくらい。
中国は明らかにまだまだ省エネの余地があります。
ナイトボートの後は珠江沿いのレストランへ。
いわゆる海鮮レストランらしく、店の一角は魚屋・・・というよりも観賞魚の売り場のようにいろいろな魚、海老、ウニなどが並んでいる。ここに店員と一緒に来て、食材と調理方法を注文できる。値段はけっして安くないです。もちろんテーブルでメニューから注文することもできる。
まずはいつもの鶏の手から。
これはウニです。ウニの外側の皮を生かして、中に卵で調理した茶碗蒸しのようなウニ。でも、ウニは寿司が一番かも。
2日目の2009年6月28日(日)の夜はホテルのバーで飲んでから就寝。バーにはPCが置いてあり、いろいろ試しましたが、やっぱりYouTubeとかには繋がらなかった。
3日目の2009年6月29日(月)は、朝ホテルを出て近くの流花湖公園の「粥城」で朝食。
平日の朝だというのに特におじいさん、おばあさんでいっぱい。やかましく会話をしながら食事をしている。
名前の通り粥もあるし、点心もたくさんあって、好きなものを選べる。朝から湿度がとても高いので、カメラのレンズが曇ってしまっています。
朝食後、ホテルを出発するまでの間に街を散策。
写真は地下鉄にあった政治スローガンらしきポスター。こういったポスターや看板は街中に多くあり、共産党の独裁国家なのだな、ということを思い出させます。それ以外は普通の街なのですが。
北京路は歩行者天国の繁華街として有名なところ。さすがに平日の午前中なので大混雑と言うことはありません。歴史がある通りらしく、道の途中には遺跡が見られるようになっています。
2009年6月29日(月)、北京路から一旦ホテルに戻り、チェックアウトして出発。タクシーで広州白雲空港まで。
出国手続はスムーズで、お土産を買ったりビールを飲んだりする時間があった。搭乗したNH924はパンダ飛行機だった。14:25発の予定だったが空港が混んでいる?ということで、座席に座ってから出発が1時間以上遅れた。
成田空港には21:00頃到着。同じ2009年の5月にトルコに行ったときには検疫票を書かされたり大変だったが、今回は小さい注意事項の紙を渡されておしまい。
最終の成田エクスプレスで東京まで行き、中央線で帰宅。
中国東北部の黒竜江省の省都で、松花江沿いに広がる。旧字体では哈爾浜と書かれる。カタカナではハルビンとも書かれる。1898年にロシア帝国により東清鉄道建設が着手されると急激に開発された。満州国が成立して日本による支配が進んでも交通の要衝として発展した。こうした歴史的な経緯からヨーロッパ風の独特の街並みが広がっている。ハルピン旅行として2011年7月1日-7月3日の3日間滞在した。
あと、個人的には祖父母が住んでいた街で、父もここで幼少期を過ごしている。
比較的新しい街であり、みんな普通語を話しているらしい。
2011年7月1日(金)朝、吉祥寺から成田エクスプレスで一気に成田空港に行くはずだったが、仕事が終わらずにタクシーで帰宅し、荷造り。さらに携帯電話を会社に忘れたことに気がつき、結局徹夜で朝の電車で会社に寄り、6時過ぎに東京駅から成田エクスプレスに乗って、爆睡。7時過ぎに成田空港へ。
今回は初めてのアシアナ航空。乗っている時間が長くないので窓側の席をリクエスト。9:00発のアシアナ航空OZ107便で出発したが、食事の時以外、またぐっすり寝てしまった。11:35ごろに仁川空港着。
すぐに乗り換えて、12:20発のOZ339便で出発し、13:30ごろにハルピン太平国際空港着。到着間際に見た景色は、ひたすら広がる平野に緑の畑が延々と拡がり、赤い屋根の集落が集まっている。ちょっと北海道のように感じる景色。
空港の出発ロビーに回ってATMで元を降ろした。バスで行こうと思ったがよくわからなかったので、タクシー乗り場へ。何か紙を渡されたが、タクシーの番号と、空港から主な場所までの相場が書いてあった。こういうのは良いと思った。中国語だけど。
タクシーの運転手に"Can you speak Chinese?"と言われたけど、"No"と言ったら会話終了。車は周りに森や畑ばかりのところを走るが、木の形と良い、まるでヨーロッパを走っているようだった。街に近づいてくると急に建物も交通量も増えてくるが、欧風の建物や、30階くらいある高層ビルが並び立っていてちょっと興奮した。
最後に狭い路地を通って、Holiday Inn Harbin City Centreへ。
中央大街との入口という便利な場所にあるので、日本から予約していったホテル。
ハルピン太平空港からタクシーで到着。工事をしているらしくロビーは狭く、仮設の机でチェックインした。混んでいてちょっと時間がかかった。
部屋はきれいだったが、窓の外が非常階段でちょっと残念。
しかし、朝食のバイキングはさすが中国というかとても充実していて、かつ、担当の若い女性がなぜか毎朝満面の笑みでうれしそうに挨拶してくれるので気分が良かった。
地下鉄が建設中だが、行った時点ではバスとタクシーが移動手段。
タクシーは、あんまり英語が通じない。"airport!"が通じなかった。ホテルの部屋にはこんなカードが置いてあって、チェックするあるいは書いて見せれば良いというもの。これは良い考えだったかも。
バスも一回乗った。バス停に名称、経路が書かれているので地名が分かればわかりやすいが、結構停留所の間が離れている。
ホテルにチェックインして一休みしてから、ホテルを出てすぐの中央大街へ。ここはかつてキタイスカヤ(ロシア語で中国の街と言った意味)と呼ばれていたところで、ロシア時代からの古い街並みが残されている。そして現在は歩行者天国になっていて、店が建ち並ぶ繁華街になっている。
通りの入口にはちょっとしたアーチがあって、入ってすぐにプレートがあり、この通りは建物を保存して云々と書いてある。多分。
通りの中に入ると、歴史的な建物が建ち並び、まるでヨーロッパのよう。古い建物にはそれぞれプレートがつけられていて、いつ頃建てられたものかが説明されている。古い建物だけではなく、新しい建物もあるようだが、周りと調和するように建てられているようだ。
石畳の歩行者天国になっているが、ちょうど中国共産党90周年の時期だったのか、中国の、というか中国共産党の歴史と成果をたたえるプレートが道の真ん中に続いていた。
通りは現在はショッピングストリートになっていて、大きなショッピングセンターもあるが、路地には飲食店もある。いくつかの脇道には大きな路上ビアホールがあって、みんなビールを飲んでいる。
ハルピンは中国で最初にビールが造られた街で、今でもビールの消費量がとても多いらしい。
あと、アイスクリームも2元で売っていて、みんな買って食べている。
街を歩いて1つびっくりしたのは、とてもきれいなこと。本当にゴミ1つ落ちていないし、歩きたばこをしている人もいない。よく見ていると、ゴミ箱があって、アイスを食べた後の棒などもみんなそこまで行ってゴミを捨てている。マナーはとても良い。また、掃除もかなり頻繁にしているようだし、花も飾られていてかなりきれい。
ただ、街を歩いている人のファッションは・・・かなり残念。どうすればそんな組み合わせになるのか、とか、どこでそんな色の服を売っているのかという感じ。ショッピングセンターにはそれなりにおしゃれな服があるようなのですが・・・。また、スーツを着た人も見なかった。
中央大街の突き当たりは松花江にぶつかって終わっている。ぶつかったところには防洪紀念塔という塔が立っていて、ちょっとした広場になっている。ここから中央大街を見ると、ヨーロッパのどこかにいるような街並み。
ここから川沿いに左右にはスターリン公園と呼ばれる並木道のような公園が広がっている。向かいの太陽島に向かうフェリーが出ていたり、川を見ておしゃべりしている人がいたり、さらになんと川に入って泳いでいる人もいる。川は茶色くて清流という感じではないが。釣りをしている人もいた。あと、Tシャツを腕まくりではなく、腹まくり?している不思議な人を発見。写真にも写っているが、その後も何回かこの不思議なファッションには遭遇した。
夕食は中央大街の「東方餃子王」という店。チェーン店らしい。餃子は中国の東北地方で有名な食べ物。
入ってメニューを見せられたが中国語で全然分からないので、ビールを頼み、字から適当に頼んだ。1皿が12個なので、2皿で24個食べた。おそらく白菜と豚肉の餃子と、ナマコなど3種類が入った餃子の2種類。種類によって形が違う。よく知られているように日本の焼き餃子とは違い、水餃子。また、皮は厚くて腹に溜まるが、舌触りはつるんとしていてすいすい食べられる。
餃子は1皿10元くらいで、全部で400円くらいだった。
二日目の2011年7月2日(土)、徹夜明けの後に寝たので、起きるのがきつかったが、ホテルで朝食。朝食のバイキングは充実していて、いろいろなものがあったが、中国茶で煮たゆで卵というのもあった。
前日に外からちょっとだけ見た聖ソフィア大聖堂まで。これはロシアが作ったものでハルピンの観光名所となっているが、現在は教会として使われておらず、ハルピンの昔の写真などを展示した博物館になっている。内壁の装飾も剥がれたりしてしまっていて、ちょっと残念だった。
街を歩いていくと、昔の建物が多い中央大街以外にも不思議な建物が多い。街並みもどこか洋風の建物が多く、新しく建てられたであろう高層ビルかマンションも、一番上にドームのような装飾が着いていたりする。単に古いものが残っていると言うことだけではなく、建築の意匠の文化として根付いているようだ。
線路を越えて東北烈士紀念館へ。ここも歴史的な建物で、満州時代の警察署だったらしいが、今では坑日運動の博物館となっている。
日本人としてはちょっと入りにくいところがあるが、中へ。入口の守衛に何か言われ、切符が居るのかと思ったが、身分証明書を見せると無料では入れるという仕組みだった。
東北烈士紀念館の後は、歩いてハルピン駅へ。ここは伊藤博文が暗殺された場所として有名だが、入口は行列が出来ていて、入れるか分からなかったので外から見学。
駅の向かいに牛肉麺の店があったので昼食。
旧ヤマトホテルの横を通って、黒龍江省博物館へ。雲行きが悪くなって雨がぱらついてきた。博物館自体は普通の博物館だったが、なぜか中が鼻が曲がりそうな臭いがした。説明は中国語のみだが、漢字だと何となく意味が分かる。中国の歴史も、中原と東北のように分けて解説してあった。
ハルピンのもう1つの中心街と言えるのが西大直街から東大直街と名前を変えて走る大通り。西に向かって西大直街をハルピン工業大学まで歩き、折り返して東に進んで東大直街を極楽寺に向けて歩いた。ここにも何となく欧風の建物が建ち並ぶと同時に多き車ショッピングセンターもあった。
しかし、この通り沿いには現在地下鉄が建設中で、ずっと工事中でウクライナ寺院なども工事に隠れてよく見えなかった。日本だと順番に工事をしていくのだろうが、全線一気に掘り返して作っている様子。
東大直街をずっと歩いて極楽寺。天台宗の寺院だそうで、周囲もちょっとした門前町になっており、中も広い。中華風の寺院という感じで、みんなあの太い線香をあげていた。相当暑くなってきたので、バスでホテルまで戻った。
夕食は迷ったが、結局前日と同じ中央大街の東方餃子王。500mlのハルピンビールを2本のみ、12個セットの餃子を3種類食べた。かなり限界。
写真に映っているスープのようなものは、餃子をゆでたお湯。そば湯じゃないが、無料で注いでくれる。
2011年7月3日(日)、朝食後にチェックアウトし、荷物を預け、太陽島へ。
太陽島は松花江を渡ったところにあるので、中央大街を通り抜け、川沿いを歩き、行きはロープウェイで行ってみた。もちろん景色は良いが、高層のビルをがんがん建設中なのが見える。
太陽島は公園というかリゾートになっていて、休日だったこともあり、人が多い。決して川はきれいとは思わないが、泳いでいる人もいる。
ロシアのテーマパークとかもあるが、ちょっと時間がなくて、とんぼ返り。
帰りはロープウェイではなく、渡し船で戻ってきた。中央大街でこれまたハルピン名物のソーセージを買って食べたが・・・味はあまり。
ホテルで荷物を受け取って、外に出ると結構雨が降ってきた。交差点まで歩いてタクシーを拾おうとしたが、"airport"という単語がなかなか通じない。ようやく1台捕まえて、身振りで飛行機ということを伝え、ハルピン太平国際空港へ。途中で運転手はまた不安になってきたのか、行き先を確認したので、今度はガイドブックを見せた。一般の人にはあんまり英語が通じない。
ハルピン太平国際空港を14:30にOZ340で出発し、18:00過ぎに仁川国際空港着。慌ただしく乗り換えて18:50発のOZ108に乗ったが、乗り継ぎ待ちなどで1時間近く機中で待たされた。ようやく出発したが、成田空港に21:00着の予定が22:00ごろに。到着後、結構周りの乗客も帰りの交通手段が確保できるか焦っているようだった。
22:18成田国際空港発のスカイライナーで日暮里まで。神田で乗り換えて吉祥寺へ戻ってきて帰宅。
中国の首都。金、元、明、清と主要な王朝で首都となった中国北部の要所であり、世界遺産となっている歴史的な建物が今も残る。
北京旅行として2011年9月16日(金)-9月19日(月)の4日間滞在した。
近くて、若い人の服装も日本とあまり変わらないですが、建物は新しくて立派。
2011年9月16日(金)、夕方から京成スカイアクセス線で成田空港へ。着替えて入らない荷物を空港のロッカーに入れたが、まだ仕事があったので空港のロビーでノートパソコンで仕事の残りを少しやってから、日本航空JL869便で18:15に出発。仕事のノートパソコンを持って出張ではない旅行に行くのは初めて。やれやれ。
飛行機は3列の席で1人だけだったので、余裕があった。睡眠不足で少し寝たが、全然準備していなかったので、ガイドブックをようやく読み始めて予習。
21:15頃に北京首都国際空港のターミナル3に到着。話には聞いていたけども、ガラスでできたターミナル3は超巨大で、到着したゲートの番号はなんと518だった。
空港からは地下鉄で東直門、雍和宮と乗り換えて、灯市口駅まで。駅から外に出るとちょっと雨が降っていた。歩いてPark Plaza北京王府井にチェックイン。
初めての北京だったので、booking.comでレビューも見ながら予約していったホテル。王府井にもそれほど遠くない場所にある。
チェックインしたところ、朝食、Happy Hourのフリードリンク、遅いチェックアウトのパッケージへのアップグレードを進められた。朝食はいずれにせよ頼もうと思ったので、それに決めた。
地下鉄の灯市口駅からすぐ近くなので、観光には便利。また、朝食のバフェも充実していた。日本のプラグにも対応したコンセントが部屋の中にたくさんあるのも便利。
ハルピンの時と同様、ホテルのカードには、行き先をチェックしてタクシーの運転手に渡せるように行き先が書かれている。これ、良い考えだよね。
北京には地下鉄があるので、自由自在に移動できる。空港へ向かう線以外は2元の共通料金で、自動販売機で買うICカード式のチケットをタッチして入構する。出るときは改札にチケットを差し込んで回収される。
バス、トローリーバスも走っていて、乗り場に丁寧に経路が書いてあるので乗りやすい。こちらの値段は様々だが、地元の人はほとんどICカードを使っている。乗るときと降りるときの両方にタッチする方式。
ただし、地下鉄もバスも結構混んでいて、列を作ったり、人が降りてから乗るというマナーはまだ完全ではないので、混んでいるときに降りるときはラグビー状態になる。
2011年9月17日(土)、睡眠不足だったので寝坊して出遅れてしまったが、まずは万里の長城。地下鉄で積水潭駅まで行った。駅前の川では釣りをしていたりして、のんびりした雰囲気。
徳勝門まで歩き、919番の延慶行きのバスに乗車。ここまでは良かった。バスは混んでいたので、きっと皆万里の長城に行くのだろうと思って気を抜いて疲れて寝てしまったら、八達嶺を通り過ぎてしまった模様。途中でちらっと万里の長城が見えたのに、それっきり全然見えない、というか街中に入って、交差点毎にバスが止まって人が段々と降りていく。急に覚醒。
まわりの様子を見ると、どうやら終点の延慶の街まで来てしまった模様。終点の1つ前、残りの客が全部降りてしまうところで、とりあえず降りた。
きょろきょろしているとおばさんが近づいてきて、中国語で話しかけてくる。わからないと、紙に「長城」と書いて、100元札を見せ、自分の小さなバンを指さす。ここまでのバスが12元なのに、さすがにそれは高いので無視。
逆向きのバスに乗ればよいのだろうと思い、向かいに渡って並んでいる919番のバスに乗ろうとして、今度は念のためガイドブックの「八達嶺」を見せると、なにやら違うらしくいろいろ説明する。わからないのでガイドブックに書いてもらって、身振り手振りを解釈すると、どうやら信号まで行って、左に曲がって、快速の919番のバスに乗れと言われた模様。919番のバスにいろいろ系統があるらしい・・・。
言われたとおりに行って、919番の表示があるバス停があったので、そこに来た919番のバスに乗ろうとして、今度は念のためガイドブックの「八達嶺」を見せると、反対向きだ、という身振り。聞いて良かった。
道路の反対側に渡り、来たバスに乗車。いろいろな停留所に止まるので、近づいたらしくなってから、しつこく女性の車掌さんにガイドブックの「八達嶺」を見せて確認。
でも、着いたらとっても観光地で、言われなくてもすぐにわかった。マイカーで来る中国人観光客も多いようで、近づくとバスは渋滞でなかなか進まなかった。結局着いたら14:30頃になってしまった。
万里の長城はとても長いので、いろいろな場所があるらしいが、八達嶺の万里の長城は、その中でも有名なところ。バスでアクセスできるあたりはちょうど谷のようになっていて、長城もそのあたりを底に両側に昇っている。両側に昇るロープウェイがあるので、まずは急な男坂と呼ばれる方をロープウェイで上り、男坂を下って女坂を上ってから、今度は女坂のロープウェイで下った。長城は地形に沿って作られているが、かなり急であるくだけでもきつい。疲れた。ただし、歩いた部分は長城のほんの一部で、遙か先まで続いているのが見える。
帰りは919番のバスで積水潭駅まで。昼食を食べ損なったので、駅の近くで売っているソーセージを購入。地下鉄でホテルに戻った。
ホテルに戻り、追加料金を払ったので利用できるラウンジでビールを飲んでから、ホテル近くの食堂で夕食。高級なところではなく、地元の食堂と行ったところ。中華というと、テーブルを囲んで大人数で、というイメージがあるが、結構一人で食べている人もいた。
ピータンと辛い炒め物を注文。唐辛子の間に肉とピーナッツがあるような辛さで最後はなかなかきつかった。お腹いっぱいになってホテルに戻って就寝。
3日目の2011年9月18日(日)は、朝、地下鉄で天安門東駅まで行って、天安門広場へ。そんなに遠くないが、途中で地下鉄がしばらく止まってしまっていて時間がかかった。
天安門広場、確かに広いけど、ばかでかいという感じはしなかった。1989年の天安門事件のイメージがあるので、警備員がいたりものものしいのかと思ったが、中国人の観光客が多くてのんびりとしている。
道路を挟んで毛沢東の写真を飾った紫禁城(故宮博物館)が見える。ニュースでよく見る風景。
天安門広場の次は道路を渡って紫禁城(故宮博物館)へ。もちろん世界遺産。この毛沢東の写真が飾られた門が「天安門」というらしい。これを通ると、端門、午門と門が続いている。ここで入場券を買って中に進む。また、音声ガイドをしてくれる電子マップを借りることができる。これは良くできていて、移動すると地図上にランプがつき、解説してくれる。日本語版もあるが、「電子マツプ」となっているのはご愛敬。
入場料を払って進むと太和門をくぐる。大和門も立派な門で、一対の大きなライオンの像が置かれている。
太和門をくぐると大きな広場に出て、向かいに太和殿が見える。これぞラストエンペラーに出てくる景色。故宮で使われている黄色ともオレンジとも見える瓦は、皇帝にしか利用がゆるされなかったものであるとのこと。屋根の先には走獣と呼ばれる動物などの像が並んでいるが、この数が建物の格を表していて、多いものほど格が高い建物らしい。
門の周囲にはいろいろなものがある。鶴と亀の像は長寿を意味している。日時計と度量衡標準器が置かれているのは、時間や単位を皇帝が司っていることを意味しているとのこと。三本足の鼎もたくさん置かれている。
中和殿というやや小振りな建物を通り抜けると今度は保和殿という建物がある。この建物を通り抜けると、一枚岩のレリーフがある。似たようなものは別の建物にもあるが、ここのものが最大とのこと。皇帝は輿に乗ってここを通ったという。結構急だけど。
これは一枚岩なので、当然相当な重さがある。どうやってここに持ってきたかというと、冬期に地面に水をまき、凍らせた上を滑らせて運んだらしい。
天安門から入り、巨大で迫力がある建物が続く区画は外朝と呼ばれ、公式行事が行われる場所だったとのこと。それに対して、その奥は皇帝一族の生活空間で、結構地味。イスタンブールのドルマバフチェ宮殿もそんな感じで、統治上、表は立派に見せなければならないが、人が暮らす部分というのは案外普通の空間であるものなのかも知れない。
外東路と呼ばれる東の部分には九龍壁という九匹の龍が書かれた壁がある。玻璃でできているが、一匹、最下部の腹が彫刻の木製になっているものがある。これは、制作時に不注意で玻璃を壊した職人が取り繕ったという話がある。あくまでも伝説だが。
暢音閣(ちょうおんかく)というのは京劇用の舞台だそうで、三層の背が高い建物になっている。
珍妃井は、西太后が、息子である光緒帝の妃であった珍妃を落として殺したと言われる井戸。光緒帝が進めた近代化路線の戊戌の変法を支持したために、守旧的であった西太后の反感を買ったため、とされる。
紫禁城(故宮博物館)を見てから、景山公園へ。紫禁城の後ろにある小さな山の公園で、上まで昇ってここからは紫禁城を見下ろすことができる。
景山公園のあとはバスで西四駅まで行って、地下鉄で北宮門駅まで行って頤和園に。西太后も好んだと言われる庭園で、世界遺産。
急いでいったが、16:30頃だったので共通券も買えず、中の建物もほとんど閉まっていて残念だった。
湖沿いには長廊と言われる長い屋根付きの廊下が続いている。いろいろな絵が描いてあるが、よく見ると孫悟空の物語のようなものもあった。
長廊のところどころで、ゆでたとうもろこしを売っているので買って食べてみた。おいしいが、日本のものほど強い甘みがない自然な味のものだった。
最後の宮殿区にはたくさん建物があったが、軒並みもう閉まっていて中に入れず。景色と麒麟の銅像だけ見て終わった。
一旦ホテルに戻ってから歩いて街へ。中心街の王府井へ行き、そこから路地の小吃街へ。ここは露店が集まって有名なところ。おいしそうなものだけではなく、変わったものも売っている。餃子を食べて、味はそれなりだがとても高かった。よく見ると屋台の奥の壁に値段がはってあるけど、やはり観光客向けという感じ。
これは・・・と思ったので王府井の別の路地の食堂のようなところで夕食。ビールを頼み、胡瓜の料理と炒め物を頼んだ・・・つもりだったが、うまく伝わらなかったのか、炒め物に胡瓜が追加された特注料理が出てきた。おいしかったけど。さらにとても安かった。ビールもプラスチックのコップで庶民的。ちょっとの場所の違いでこの値段の違いよう。
ホテルに戻って就寝。
旅行最後の日、2011年9月19日(月)はホテルをチェックアウトして荷物を預けてから、地下鉄で天壇東門駅まで行って天壇。これも世界遺産。
明清時代に皇帝が祭祀を行った場所とのことで、周囲は公園になっている。
この中に祈年殿、皇穹宇、圜丘と建物が一直線上に並んでいる。最後の圜丘というのは建物というより台のような構造物で、皇帝が当時に祭祀を行ったということ。
いろいろなところで売っているので、園内で買って食べたのがこれ。冰糖葫芦(ビンタンフール)というらしい。姫リンゴかと思ったが、サンザシというもの。おいしそう、に見えるが、周りの飴はばりばりしていて、中身は酸っぱくて大きな種がいっぱいあってあまり食べるところがない。
天壇から地下鉄でホテルにいったん戻って、預けてあった荷物を受け取り、再び地下鉄で張自忠路駅まで行ってから歩いて南鑼鼓港へ。ここは、開発されてしまった北京の古びた街並みを残したまま、おしゃれな店が並んだ場所。駅からちょっと歩く。さらに入口が工事をしていて、わかりにくかった。
端から北の端まで歩いたが、あまり時間がなかったので雰囲気を味わっただけ。休日とかにくれば賑やかなのかも。
南鑼鼓港を抜けてからさらに歩き、鬼街へ。ここは、中華料理の店、特に火鍋の店がひたすら続くという食堂街。ただし、昼間だったので営業している店も少なく、ひっそりとしていた。夜に来るとここも賑やかなのかもしれない。まあ、一人旅だと鍋というのも難しいけど。
食べるところを決め損なったので、鬼街を抜けたラッフルズ広場の近代的なショッピングセンターのフードコートで昼食に麺を食べた。これで旅行もおしまい。
2011年9月19日(月)に、昼食後、東直門駅から地下鉄に乗って北京首都国際空港へ。
日本航空JL864便で15:15に北京首都国際空港発。19:40ごろに成田空港第2ターミナルに到着、成田エクスプレス、中央線で吉祥寺に帰った。
中国の東北部遼寧省の大都市。地政学的な重要性からロシアの租借地として開発され、町の名前ももともとはロシア語に由来している。その後租借地とした日本によって大連と名付けられ、開発が行われた。郊外には日露戦争の激戦地だった旅順がある。
大連旅行として2012年8月14日(火)-8月17日(金)の4日間滞在した。
人々の服装は、ハルピンよりは垢抜けているようにも感じられるが、北京よりはずっと素朴な服装。町並みもハルピンほどではないが、ロシアや日本の影響が残り、洋風の建築が並んでいる。日中は暑くても30度を超えることはないし、朝晩は秋のように涼しく快適でした。
2012年8月14日(火)、前日も仕事をしていて睡眠不足で眠かったが吉祥寺から成田エクスプレスで成田空港へ。
ツアーなので空港でチケット控えを受け取りチェックインしてNH903で10:15過ぎに出発。離陸までに結構時間がかかったが、大連周水子国際空港に到着。
空港で待っていた送迎のバスで日月潭ホテルに到着。バス内で両替もしてくれた。
ツアーなので、自分で選んだのではなく、ツアーで指定されたホテル。路面電車が走る長江路から少し入ったところにあるので交通は便利。結構高いビルなので町中からも見える。
全体的に古びていて、部屋の中もそれなり。ただし、割り当てられた部屋は二部屋になっていて広く、快適だった。洗面所にはなぜかコンドームも備えてあり、毎晩マッサージのお誘いの電話がかかってくる。
日本統治時代に作られた路面電車が2系統走っている。2両編成の新しい車両もあるが、博物館から出てきたような古い車両も走っている。赤が中国人用、青が外国人用だったそうだ。全然来ないかと思うと2両連なってきたりして、時間は余り当てにならない。
タクシーはたくさん走っていて安く便利だが、その分利用する人も多く、時間によっては空車がなかなか見つからない。
地下鉄を建設中で、2014年に開通する予定とのこと。
大連に到着した2012年8月14日(火)、雨が降ってきたが、ホテルの周りを少し観光。
旧ロシア人街はロシア人居住区があった場所で、洋風の建物が並び、マトリョーシカなどを売る土産物屋が並ぶ。ただ、ハルピンの中央大街を見てしまうと、ちょっと物足りない。一番奥には立派な建物があるが、これはロシア、日本が使っていたものの、現在では使われていない。
円形の広場で日本統治時代には大広場と呼ばれた。その時代に建てられた大連中山広場近代建築群がぐるりと囲んで建っていて圧巻。夜にもライトアップされてきれい。歴史的建築物として保存されているようだが、それぞれホテルや銀行などに現在も使われている。旧ヤマトホテルは現在のホテルとして利用されているようで、泊まってみれば良かった。
行ったときは地下鉄の工事で広場が閉鎖されて囲まれてしまっていたので、広場を囲む建物を一望にできなかったのは残念。それぞれの建物には文化財として保護されている旨の銘板がある。
大連駅も日本統治時代に建てられたもの。周囲にはホテルも含め、高層ビルが建っている。人がとても多い。
8月14日(火)は大連駅を見た後、ホテルで少し休み、ホテル近くで夕食。よく分からないので入ってみた店は四川料理だった。写真入りのメニューだったので指さし注文したが、中国語でいろいろ質問されてまったく分からなかった。ビールも一通り種類を持ってきてくれ、指さし注文。
キクラゲの前菜と、イカをたくさんの唐辛子と花椒で炒めた料理を食べたが、猛烈に辛かった。62元くらい。
時間は早かったが、睡眠不足だったせいか、夕食後早めに就寝。
8月15日(水)は路面電車で三八広場まで行き、火鍋を食べた。84.5元。�え勅�徳菜というチェーン店らしく、広くてメニューも写真入り。しかし、ここでも注文に難儀し、ウェイトレスと調理場の前まで行って指さしで注文。ウェイトレスも牛肉か羊肉かを角のジェスチャーで伝えようとしていたようだが、それはわからないよ・・・。
8月16日(木)はまず旧満鉄本社。この建物も現在も使われているそうだが、博物館のように立派な建物。一部は入ることが出来、建物と資料の展示を見ることできる。ほとんど日本人のようなだが、説明は中国語のみ。
暑くなってきたのでコーヒー店で休憩。
路面電車で大連駅前まで。駅前広場は勝利広場と呼ばれていて、地下が巨大なショッピングセンターとなっている。駅ビルのように小さなテナントがたくさん入り、人で賑わっている。日本の地方都市の駅ビルの寂れ方と比べると考えさせられる。
大連駅前にはかつて連鎖街と呼ばれた地域がある。繁華街だったようだが、今は電気工事用具などを売る店などが多くある。
連鎖街を抜けたところにある巨大な公園。暑い!
労働公園の中にある遊園地の前からスキー場にあるようなリフトがあり、テレビタワーのある高台まで上ることができる。テレビタワーの入場券もセットで往復100元と観光客向けの値段。それなりにおもしろいが・・・。
路面電車の終点の興工街の先にも旧日本人街があるということだったが、ちょっとどのあたりか分からなかった。現在は団地のような共同住宅が並び、右には露天が出て市場のようになっている。野菜や果物だけではなく、魚や生きたエビ、アサリ、ムール貝が売られていた。
路面電車を乗り換えて、星海広場まで。これは香港返還を記念して作られた比較的新しいもので、アジア最大の広さだという。周囲には高層ビルが建ち並び、港沿いには多くの人が集まっている。公園内には中国では珍しく飲料の自動販売機があり、午後の紅茶などを売っている。中国人が興味深そうに見ていた。
タクシーで三八広場近くの何鮮茹という店で、火鍋の夕食。ここは旅順ツアーのガイドから教わった店だが、他の地域にもあり、ここにあることを知らないタクシーの運転手もいて難儀した。ただでさえタクシーを拾いにくい時間帯だったが、最初の2台は知らないといわれ、最後の3台は広場まで行ってくれたものの分からず、無線で聞いてくれてたどり着いた。ちょっと裏に入ったわかりにくいところにある。
ここはキノコ火鍋の店。メニューにはたくさんのキノコが並んでいて、日本語の説明もあるのだが、あまりにもたくさんあってよく分からないので、高価な松茸などは避けて適当に注文。最初の茹でるところはウェイトレスがやってくれるが、味噌だれをつけて食べるのはなかなか美味しい。
一緒に注文した、というかいわれるがままに注文したパイのようなものも美味しかった。パイナップル味なのですが、マクドナルドのホットアップルパイの中身を少なくしたような味だった。
最終日の8月17日(金)、午前中にホテルに送迎が来る予定だが、その前にもう1つの旧日本人街である南山路周辺に。歩いて行ったが日差しが強い。
行ったのだが、多分旧日本人街があったであろうあたりは工事中で新しい瀟洒な住宅に変えられているようで、ほとんど面影が残っていなかった。哈爾浜路という道自体、工事で通行止めだった。
暑いので帰りは途中までバスで戻り、歩いてホテルへ。
二日目の2012年8月15日(水)は日本から申し込んであったツアーで旅順へ。旅順は大連郊外にある日露戦争の激戦地。地形図を見ると、半島が防波堤のように張り出しており、天然の港であることが分かる。
軍港になっていて外国人の立ち入りが長らく制限されていたが、2009年から外国人も行けるようになった。ただし、一部はまだ制限されているようであり、交通の便も良くないので大連世界旅行社という日本人向け現地会社のツアーで見て回ることにした。ツアーと言っても知らない人同士が大人数参加するようなものは中国人向け以外はないようで、今回も1人旅行だったので、私とガイド1人というこじんまりしたもの。車をチャーターするコースもあったが1人でそれもおおげさかと思ったので、バスで移動するコースにしたが、旅順の中での移動がタクシーではやはり限界があるので、ちょっと高くなるが車をチャーターするコースの方が自由度はあるようだ。
たまたまだが終戦記念日だったので少し緊張したが、中国ではあまり意識していないようだった。もっともこの日に尖閣諸島に香港から上陸して海外安全情報が発出されることになったのだが・・・。
ぐっすりと寝て睡眠不足も解消してすっきりと起き、ホテルのロビーに迎えに来たガイドの女性と合流して9:00に出発。大連駅の北の広場まで歩いていってバスに乗り、旅順へ。これが結構込んでいて時間がかかり、旅順には11時頃に到着。
最初に訪問したのが日露監獄旧址博物館。ロシアが建て、その後日本が大幅に拡張して刑務所として使っていた建物。網走の監獄にも似ている。日本人も収容されていたが、ほとんどが中国人で政治犯も多く、劣悪な環境で死んだ人も多く、重労働をさせられ、拷問もされたという歴史教育的な展示。中国人の小学生も訪問していた。
ここから乗ったタクシーの運転手に感想はどうか問われたが、「複雑です」と答えておいた。どう答えて良いかは難しい。
タクシーで移動して昼食は鮮鮮餃子という店で餃子。人気店のようで結構混んでいる。2種類頼んだが、量が多くてガイドと2人でも全部食べられなかった。ガイドによれば、日本人が餃子とご飯を食べるのは信じられない、とのこと。餃子が主食でしょう?とのこと。確かに小麦粉の皮で包まれているのでそういう気もする。いわばラーメンとご飯、お好み焼きとご飯のように変らしい。まあ、それも日本ではたまにあるけど。
昼食後は203高地。日露戦争で激戦地になったところ。ここを占領した後、5km離れた旅順港のロシア艦隊を砲撃して破壊した。当時ははげ山だったが、今は森に覆われていて、蝉が鳴く中の山道を上っていく。頂上には爾霊山という203にかけた名の弾丸型の碑が建っている。これはこの地から弾丸を拾って集めて鋳造し、乃木将軍の出身地の山口県の石の上に設置したものらしい。もともと日本語で文字が刻まれていたようだが、文化大革命の際に削られてしまっている。
日本人が多い観光地なので、看板は中国語だけではなく日本語でも示されている。中国側は爾霊山は相当嫌いらしい。
旅順にはロシアが作った旧市街と日本が作った新市街があるが、その「新市街」は今では静かな住宅地になってしまっている。旅順のヤマトホテルもかつては一等地にあったのだろうが、今はただの建物になってしまっている。一応ホテルとしても利用されているようだが、それほど高級なものでもないようだ。建物自体も豪華な屋根部分などがなくなっており、改装されてしまっている。
入り口に入るとカーブした階段があり、往時を偲ばせる。溥儀も滞在していたそうだ。
周辺には日本人の住居だった建物があり、遊郭だった建物もある。日本人の中で遊郭で働く日本人の割合は相当高かったそうだ。
旧関東軍司令部は、満州事変を起こす話し合いが行われた場所。正面には大連がソ連から中国に返還されたときに記念碑があり、これを挟んで旅順博物館がある。中も見たかったが時間がなかった。残念。
ロシアが築いた要塞で、ここも日露戦争の激戦地。石でできた重厚なものだが、今でも弾丸の跡が生々しく残っている。最後は日本軍がトンネルを掘っていって地下からダイナマイトで爆破する攻撃を行った。
ここを見た後、タクシーとバスで大連に帰って旅順ツアーは終了。
8月17日(金)、ホテルに戻ってチェックアウト。
送迎のバスで大連周水子国際空港まで行き、NH904で13:10ごろ出発。当初の予定は12:15だったが、急病人と航路の混雑で1時間近く出発が遅れた。
18:00前に成田空港到着、成田エクスプレスで東京まで行き、中央線で帰宅。
中国の首都は北京だが、最大の都市は直轄市である上海。長江のデルタ地帯にあり、19世紀に開港されてから急速に発展し、浦東地区には超高層ビルが並ぶ。一方で、租界時代の建物も残り、対照をなしている。
歴史が浅い大都市ではあるが、リニアモーターカー、上海雑伎団、上海博物館、上海環球金融中心となかなか楽しかった。
現在もそうだが戦前も多くの日本人が住んでおり、祖父もこの街で「新聞社の社長」として働いていたこともあり、高谷家の歴史ともゆかりがある街。
上海旅行として2013年9月21日(土)-9月23日(月)の3日間滞在した。
普通語とは異なる上海語を話しているというが、街中の表記やホテルなどで話しかけてくる言葉は普通語で、旅行者からするとよく分からない。上海自体19世紀から発展して人が集まって来た街なので、上海語というもの自体、そんなに歴史がある言葉ではないようだ。言葉というのは不思議。
荷造りは早めに済ませていたものの、前日は終電になり、さらにちょっと飲んで帰ったために睡眠不足。2013年9月21日(土)、成田エクスプレスで6:19に吉祥寺を出発し、成田空港に8時前に到着するまで。爆睡。
荷物をチェックインしてから朝食にそばを食べ、ANAのNH919で9:50発。飛行機の中でも食事の時以外爆睡。上海着陸直前には何とか起きて、平野を川が蛇行して流れるいかにもデルタ地帯という景色が見えた。
11:40ごろに上海浦東空港に到着、リニアモーターカーで龍陽路駅まで行き、地下鉄2号線で人民広場まで行って上海揚子精品酒店にチェックイン。霧雨が降っていた。
仕事でばたばたして時間がない中で、出発の一週間前にBooking.comで予約。一泊2万円近くと自分としては奮発したが、街の中心に近くて観光に便利で、部屋も広くて豪華だった。
客室があるフロアの廊下には上海の昔の小物が展示してあり、部屋は重厚な雰囲気でバスルームもとても広い。
市内は地下鉄が無数に走っているので観光客でも簡単に移動できる。
2つある空港のうち、上海浦東空港は街の中心から1時間くらいあるが、空港から街の中心近くの龍陽路駅まではリニアモーターカーが走っていて、これを使うと10分未満で着くことができる。このリニアモーターカーは上海万博の時にできたもので、営業運転をするものとしては世界初。最高速度は470km/hくらい出るらしいが、今回利用した昼の時間帯は300km/hまでに制限されている。新幹線と同じくらいのスピードと言うことになるが、モノレールのように高いところを走り、カーブではかなり傾いて走るのでジェットコースターに乗っているようで楽しい。
長江河口のデルタ地帯にあるので街は非常に平らだが、新しい地区である浦東地区には超高層ビルがにょきにょきと林立している。
2013年9月21日(土)にホテルにチェックイン後、睡眠不足で眠いし、雨が降っていて外は蒸し暑いので少しだらだらとしてしまったが、がんばって外出。雨も上がってきた。
南京東路は人民広場から東に延びていて、大部分が歩行者天国になっている。服を売る店やチェーンのレストランが多い。
南京東路を歩き続けると外灘(ガイタン、あるいはバンド)と呼ばれる川沿いの地域に出る。ここには租界時代の建物が並んでいて、独特の雰囲気。さらに、向かいには浦東地区の高層ビルがあって、この景色は上海の紹介でよく見たもの。中国人の観光客がびっしりだが、夜に見た方が良い景色かと思ったのですぐに撤退。
地下鉄で打越橋まで行って、田子坊。ここは一区画が昔の入り組んだ路地のようになっていて、そこに飲食店や小物売り場などが集まっている。外国人も含めた観光客が多い。
上海には上海雑技団を見られる劇場がいくつかあるが、白玉蘭劇院へ。これだけは日本から旅行代理店(このサイト、クレジットカードの送信がSSLではない・・・)を通じて予約しておいた。それほど期待していなくて、せっかくだからくらいだったのだが、これはおもしろかった。睡眠不足でもうろうとしていたが、最後まで見られた。
男性のグループと女性のグループが交互にいろいろな技を披露するが、分担がきっちり分かれているのではなく、同じ人達がいろいろな技をやっている。体操や新体操でオリンピックに出られるんじゃないかというような技をやるが、よく見ていると細かいミスをしていたりするので、かえって難しいことをしているんだな、という感じがする。
特にすごかったのは、木のベンチをいくつも重ねてつなげたものを額一カ所で支えて持ち上げるバランスや、二人の女性が狭い円形の舞台の上でローラースケートで回転するもの、大きな鉄球の中にバイクが4~5台入り、ぶつかりそうになりながらぐるぐる回るもの。見ていて思わず声を上げてしまうようなものがある。女性が反って頭の上に足が来ると行った静かなものもあれば、ループをジャンプして通り抜けるもの、中国ヨーヨー、自転車に10人が乗るものと動と静、道具を使うものと多彩。女性が両手に皿回しをしながらいろいろな曲芸をするものは、あまりにも簡単そうにやっているので棒の先に皿がくっついているのかと思うが、ショーの最後に一斉に皿を床に落として終わる。演出もなかなか。
再び外灘へ戻って夜景。向かいの浦東の高層ビルはライトアップされている。こちら側の岸の外灘のビルがライトアップされている。一通り建物を見たが、これらの建物は現在は高級ホテルやレストラン、ブランドショップなどに使われているようだ。一つ一つのビルが保存されているだけではなく、並びとして保存されている。途中でおかしな建物に建て替えられている場所がないのが立派。
はじめての食事は外灘近くのレストランで。9時過ぎになってしまっていて、9:30までと言われたので慌ただしかった。豚の角煮は上海の家庭料理だそうで、黒光りしている。こういう脂っこい食べ物は大好きだしおいしかったが、さすがにこれだけ食べると最後はちょっと胸焼けがした。
夜も賑やかな南京東路を歩いてホテルへ。やはり日本人だとわかるのか、「マッサージ?」と5回くらい声をかけられた。さらにそのうち2回は、日本人だと分かると「チンチンマッサージ?チンチンマッサージ?」と妙な日本語で勧誘され、安いよ!かわいいよ!と女性の写真が入った小さなカードを見せて勧誘された。何なんだ。これまでに上海に来た日本人の人、反省してください。
2013年9月22日(日)は何とか晴れて、朝から豫園へ。
地下鉄の豫園の駅で降りると若い女性の二人組に写真の撮影を2枚も頼まれ、英語の勉強をしているが日本にも行く予定があるけどどこがおすすめだと言うことで少しお話。そのうち、一緒に観光しましょうという話になったが、状況からそんな話になりそうな気がしたので、ごめんなさいね、と言って離脱。
豫園は庭園として上海の観光地になっているが、周囲には門前町とも言うべき商店街となっていて、それも含めて観光地になっている。
広い庭園だが、広大な北京の頤和園と違って、建物は密接していて、そこを縫うように池がある。奥行きや景色を表現しようという方法は、日本庭園にも通じる感じがする。
こじんまりとしている中に入り口から入って近くの池のほとりに築山があり、それなりに大きなものだが、なんとこれが当時は上海で最も高い場所だったという。たしかに上海は平らな土地だと思うが、超高層ビルが建ち並ぶ現在とは隔世の感がある。
建物は大きさも形も構造も様々だが、屋根を支える構造でどこかで見たことがあると思ったら、ベトナムのホイアンで見た住宅にそっくりだった。
この穴だらけの岩は、江南三大銘石の1つなのだそうだ。
奥まったところにある内園。この舞台は相当に凝った作りになっている。
豫園のすぐ近くに廟があり、道教の寺院としてみんな無心でお祈りしている。ここにもたくさんの建物があってそれぞれ立派だが、一番奥の舞台は天井の構造も含めてかなり凝った作りになっている。
あまりに暑いのでスターバックスで休憩。さらに近くのフードコートで昼食。焼きそば、春巻きっぽい食べ物、青菜の炒め物を食べたが、まあまあという感じ。
昼食後、人民広場まで移動し、上海博物館へ。建物は方形と円形を組み合わせて中国の伝統を表しているのだそうだ。
入り口から行列ができていて、45分待ちという表示。日差しが強いしどうなるかと思ったが、それほど待たずには入れた。特別展でルノワールなど印象派の展示をしていて、それを目当てにしている人も多かった様子。博物館自体は無料なので、こうしたものが気軽に見られるのはちょっとうらやましい。
日本語の音声解説機を借りて、1Fからスタート。最初の青銅器の展示で圧倒された。古いものは紀元前16世紀とか書かれていたりするが、紀元前10世紀より前のものでも、工業製品ともいうべき精緻さと正確さを持って造られている。ギリシャのものでもこうした精緻な物が作られるのは紀元前5世紀くらいからの気がする。
大きな甕のような物の模様は、下半分が顔のように見えるので、獣面紋と呼ばれている。
圧巻は大克鼎と呼ばれる巨大な鼎。紀元前11-8世紀のものとされているが、200kg以上あり、さらには文字が刻まれていて、当時のことが書かれているらしい。
陶磁器もすごい。ラクダに人が乗った唐時代の彩色陶器が片隅においてあり、よく見ると顔が濃い。唐時代となるとソグド人ではないでしょうか。一人でちょっと興奮。帰国して調べると、唐三彩xというらしい。このソグド人(仮)の像もWikipediaの唐三彩に掲載されていた。
それ以外の磁器もため息が出そうな工芸品というか、美術品。滑らかさ、色、素晴らしい。
もっとゆっくり見たかったが、終了時刻になるとすごい勢いで追い出されてしまった。
黄河路まで歩いて佳家湯包という店で小籠包。このあたりはレストランが集まっていて、小籠包も向かいにも有名店があった。全然言葉は通じないが、指さしで注文して27元+生姜1元。店の端で人が集まって黙々と作っている。相席だし、少し待つ必要があったが、もちろん、美味しかった。
地下鉄で上海環球金融中心展望台へ。上海環球金融中心は森ビルが建てた高層ビルで、上側に穴が空いた栓抜きのような形をしている。当然展望台があり、この栓抜きの上辺が100階の展望台となっている。
ビルに近づくだけで巨大さが分かる。夕方からは天気が悪くなり、展望台のチケットを買おうとしたら、天気が悪くて何も見えないよ、と言われたが強行。高速のエレベーターがあり、あっというまに90階以上に到達する。そこからエスカレーターを乗り継いで100階の展望台に達する。
言われたとおり、本当に何も見えなかった。下を雲が流れていて、ほんの一瞬だけ近くのビルや地上が見えることがあったが、外灘はほとんど見えなかった。残念。
展望台は残念だったので、上海環球金融中心の鼎泰豊というレストランで夕食に蟹味噌豆腐炒め。きれいな店で、味も美味しかったし、値段も高給だった。
地上に降りて歩くと、近くには金茂大厦88層観光庁という高層ビルがあり、その後ろに上海環球金融中心が見える。そしてさらに、その隣にさらに高いビルを建設中と言うこと。土地が全然足りないという訳ではないので、こんな高層ビルを建てるのは人間の性なのかも。
浦東を黄浦江まで歩き、対岸の外灘の夜景を見学。となりのカップルがとても親密で、なかなか目のやり場に困った。まあ、夜景を見ていれば良いんですが。
2013年9月23日(月)、ホテルをチェックアウトしてから、地下鉄で虹口へ。このあたりはかつて日本人が多く住み、日本租界と呼ばれたという。日本家屋らしき物もちらっと見えたが、今はほとんど面影がない。ここも大連の日本人街同様、開発されたら亡くなってしまうような気がする。
南に歩くと多倫路文化名人街という美観地区のようなエリアがある。ここは20世紀前半の街並みを再現していて、文化人の銅像もあちこちに置いてある。
飛行機まで時間が無くなってきた。
空港に行く途中で浦東の東方明珠へ。これぞ上海という、おもちゃのような形をした有名なテレビ塔。
いろいろな複合チケットがあってわかりにくいがチケットを買って入場。そんなに混んでいないと油断したら、展望台へのエレベーターに長蛇の列。飛行機の時間が気になったが待って展望台へ。
今となっては上海環球金融中心にお株を奪われてしまっているが、それでもそれなりに観光客がいて混んでいる。ちょっと古さを感じるところが東京タワーにも似た感じ。
お約束のように床の一部がガラスになっていて下が見える。高所恐怖症というわけではないが、ちょっと足がすくむ。
東方明珠の1Fには上海歴史博物館があり、チケットは展望台とここのセットになっている。沢山のマネキンを使った非常に面白そうな展示だが、この時点で全く時間が無く、小走りで見学というか通過。上海環球金融中心と並んで心残り。
2013年9月23日(月)の最終日、東方明珠を見た後、地下鉄2号線で龍陽路駅へ。再びリニアモーターカーで上海浦東空港に向かったが、着いたのは出発予定の60分を切っていた。さすがにチェックインできるか焦ったが無事に手続きを終了。本当にお土産を買うまもなくゲートに行き、ANAのNH920で定刻30分過ぎの13:40頃に出発。
17:00ごろに成田空港到着して、スカイアクセス線、東京経由で帰宅。
ウルムチは新疆ウイグル自治区の首府(県庁所在地)。天山山脈北麓に位置し、海から最も遠い都市とも言われる。
東トルキスタン旅行の最初と最後に訪問した。成田から到着して2014年8月9日(土)-8月10日(日)に1泊してカシュガルに出発、8月15日(金)に通過しながら観光、8月16日(土)-8月17日(日)に宿泊した。街を観光したのは8月15日のみ。
宿泊したホテルが北部だったこともあるかもしれないが、ウイグル人はまばらで中国人の街そのもの。高層ビルが建ち並ぶ大都会で、シルクロードの雰囲気とはかけ離れている。
ウイグル語の併記も多いが、街で聞くのは中国語。
2014年8月9日(土)に京成スカイライナーで成田空港第1ターミナルまで。夏休み期間なのか、スカイライナーは満席。出かける前にネットで予約しておいて良かった。
成田空港を中国国際航空CA0926のB747-400出発。B747は久しぶり。こちらも満席だった。15:15発の予定だったが台風で遅れて15:40頃の出発となり、さらに滑走路で待たされて離陸も16:20頃だった。結局北京に着いたのは18:30過ぎ。ちなみに同じツアーで関空から出発し、北京で合流するグループは、台風で飛行機が飛ばなかったとのこと。
北京空港で急いでウルムチ行きに乗り換え。一旦入国手続を行って荷物を受け取り、さらに荷物を預けて安全検査を行うが、安全検査は他の方面と別で、身体を入念にチェックされるなど厳しいものだった。中国国際航空CA1295のB737-800で20:00に出発、ウルムチ空港に0:10過ぎに到着。
荷物を受け取り、待っていた現地ガイドと合流して車でハミホテルまで。
2014年8月16日(土)にトルファンから戻り、前日にトルファンに向かった時と同じホテルのレストランで夕食、8月9日と同じハミホテルにチェックイン。
最初の8月9日に来た際よりも、街に警官が目立っていた。
乗ることはできなかったが、市内には専用軌道を走るBRT(Bus Rapid Transit)が通っている。結構利用されているようだったが、それぞれの停留所がまるで空港のようにセキュリティが厳しいようだった。他のバスはそんなものはなく、なぜBRTだけ?
ツアーに含まれていたホテルで2014年8月9日(金)-8月10日(土)、8月16日(土)-8月17日(日)に宿泊。
旅行初日の2014年8月9日にチェックインしたのは日が変わった1:00過ぎで、入浴して寝たのは2:00くらい。到着したときも暗かったし、翌日出発するときも暗かった。
8月16日にチェックインした際にはまだ明るく窓から夕暮れの街が見られた。
町の規模にもよるところが大きいと思うが、設備も整っていて、東トルキスタン旅行の中で一番良いホテルだった。高層ビルなので景色も良い。
泊まるだけでほとんど観光できなかったが、バスから見ると漢族が多く、高層ビルが建ち並び、看板にウイグル語が併記されていること以外、あまり西域の都市という感じがしない。
ただし、街の郊外へ向かうと古い住宅もあるようだ。
2015年8月15日(金)にクチャからトルファンに向かう途中に経由。ミイラ館、民族館、歴史館があるが、歴史館は残念ながら閉鎖中あった。
ミイラ館に展示されている「楼蘭の美女」は3800年前のものと言われ、コーカソイドの女性のもの。エジプトのミイラと異なり、内臓を取り出すなどの処置をせずとも乾燥した気候なのでミイラになってしまう。髪の毛もしっかり残っており、表情もわかるような気がする。
民族館は、最大の割合を占めるウイグル族をはじめとした少数民族の文化を展示していておもしろい。ウイグル人のかぶる帽子はかつて都市や身分、未婚既婚で違いがあったそうだが、今はあまり区別がなくなってしまってきているという。いろいろな模様があるが、ポピュラーなものはペイズリーのようなもので、これはなぜかアーモンド模様というだそうだ。
その他、カザフ族、キルギス族、モンゴル族、タジク族、回族、満州族、シバ族、ロシア族、タタール族などたくさんの展示がある。18世紀に入り込んできた民族が多いようだ。満州族等は、清の時代に防御のために連れてこられたという。
庫車からトルファンに向かった2014年8月15日(金)の昼食、トルファンから戻ってきた8月16日の夕食を同じホテルの中華料理で。
他の新疆ウイグル地区を旅行してみると、ここの料理はあまり辛くなく、あっさりしている。8月16日の夕食ではラグメンも出た。
旅の起点として着いた2014年8月10日(日)はカシュガルへ。
5:00に起きて朝食は早いので弁当が渡され、ロビーで食べた。
ホテルを6:00に出発し、バスでウルムチ空港の中国南方航空のターミナルに行ってチェックイン。安全検査を受けようとしたら、搭乗券を確認した女性の係員が"Do you speak English?"と聞き、戻って荷物を開けて検査するように言われた。チェックインカウンターとは違うunpackというカウンターがあり、そこで荷物の中に刃物はないか聞かれた。VICTRINOXのナイフを取り出してみせると、確認してから、なにやらシステムに登録し、それでOK。再度安全検査場に戻って検査を受け、中国南方航空CZ6811のEMBRAER190で8:05頃に出発。EMBRAERに乗ったのは初めて。
朝はホテルで弁当を食べたが、機内でも朝食が出た。席は窓側でなくて残念だったが、雪を抱いた山脈が見えた。
旅の最後の8月17日(日)は成田へ帰国。
ウルムチのホテルを7:45にバスで出発。早かったためまた朝食は弁当。
現地ガイドとはウルムチ空港でお別れ。ウルムチ空港から9:55発の中国国際空港CA1296のB737-800で北京へ。同乗する中国人は、お土産用のハミウリやブドウを大量に買い込んで乗っている。窓側だったので景色がよく見えた。
北京空港に14:00前に到着、出国手続をして、保安検査を受け、コーヒーを飲んで時間をつぶしてから、16:40発の中国南方航空CA421のA320で成田に向けて出発。また離陸するまでに時間がかかった。21:30過ぎに成田空港到着、スカイライナーで日暮里経由で帰った。
新疆ウイグル自治区の西の端、タクラマカン砂漠の西端に位置するため、砂漠の南北を通るシルクロードの経路が交わる位置となり、古くからこの地は栄え、疏勒国(そろく)がこの地域に置かれた。現在にも近隣に疏勒と呼ばれる地域がある。
大きな都市で中心部は漢字が目立ち、日干し煉瓦の旧市街も失われてきているが、ウイグル人が多く、帽子をかぶった男性、鮮やかな服とスカーフをまとった女性が歩き、中央アジアの雰囲気を漂わせている。ウルムチの空港にも「カシュガルに来ないと新疆に来たことにはならないよ。」といった広告が出ていたが、まさにその通り。
乾燥地帯にある街だが、市内を茶色いチャクマク川が流れ、水は豊富のようだ。
カシュガルのウイグル人はアラブ人に似ていると言われているそうだ。
街はのんびりして平静に見えるが、警官が目立つ。テロに反対していると思われるスローガンの看板も見る。
東トルキスタン旅行としてウルムチから到着し、2014年8月10日(日)-8月11日(月)の2日間滞在し、ヤルカンドに向けて出発した。
看板などは中国語とウイグル語が併記されている。村の小学校ではウイグル語で教育が行われているが、高等教育まで行くと中国語のみらしく、入学したウイグル人は中国語を学ばなければならないために1年余分に時間がかかるとのこと。
文化大革命の時代は多くの「知識青年」がこの地に送られた。その後、1960年代には四川省や甘粛省から貧しい漢族がこの地に移り住んでいる。郊外にはタジク族を集団で移住させた地区もあった。
2014年8月10日(日)9:40過ぎに、ウルムチから中国南方航空CZ6811で到着。
空港を出たところにマシンガンと鉄棒で武装した警察の一群がいた。
ツアーに含まれていたホテルで2014年8月10日-8月11日に宿泊。
人民広場の前に立地し、建物も立派だが・・・蚊が多い。朝方に2カ所刺されて、部屋の中で3匹成敗した。
ホテル前の人民広場にも常時警察の車両が止まっていて、それを場違いな毛沢東の像が見下ろしている。こうした像があるのは中国でも三カ所しかないとのこと。
ウルムチよりウイグル人が多いが、中心部は他の中国の都市のよう。急速に開発が進んでいるようで、古い町並は失われる寸前。高層ビルが建ち始めたのもこの10年で、その前はエイティガールモスクより高い建物は建てられなかったという。
最近の情勢も反映してか、広場などには警官が目立つ。
空港をバスで出発し、エイティガールモスクへ。1422年に建てられ、1872年に拡張された新疆でも最大規模のモスク。
訪問した一ヶ月ほど前に、このモスクの中国よりとされるイマームが暗殺される事件が起きてしまった。
門はいくつかあるが、正門は左右にミナレットを配置したもの。ウズベキスタンにあるモスクやメドレセに似ている(というかイラン風なのだろう)が、青いタイルで覆われておらず、ムカルナスもなく、素朴な印象を受ける。
門をくぐって右から進むと(これが正しいらしい)、中は広場と言うよりも木々が茂る公園のようになっている。ここにラマダン明けのローズ祭や、犠牲祭には10万人規模の人が集まるとのこと。ただし、男性のみ。
中には屋外の礼拝所もあるが、中心の礼拝所は絨毯が敷き詰められている。絨毯には一人のスペースが示されている。現在は同じ模様になっているが、人が亡くなるとここに絨毯を寄進する習慣があり、それが敷き詰められているという。ちなみにホメイニ氏がここを訪れたときに寄付した掛け絨毯というものもある。この礼拝所についても見学は良いが、礼拝は男性のみとのこと。
また、正面のミフラーブの横にある説教壇(ミンバル)はとても小さい。
エイティガールモスクの横には職人街と呼ばれる商店街があり、服を売る店、装飾品を売る店、楽器を売る店などが並び、ナンやサモサを売る露店も出ている。サモサを買って食べてみたが、塩味でおいしい。ただ、二元だと言われたので一元のコインを出したら、受け取ってくれず、札で払った。
なお、職人街と呼んでいるのは日本人であって、現地でそのように呼ばれているわけではない。日本人観光客はそれなりにいるらしく、日本語で書かれた看板も見かける。
かつてはチャイハナもあったが、現在ではあまりないとのこと。その点ではウズベキスタンとは異なる。
職人街を抜けていくと古い町並が残されている地域があるが、工事でどんどん壊されている様子。もともとのカシュガルの家は日干し煉瓦で作られていた。
バスで旧ロシア領事館だったレストランで昼食に中華料理。中華料理ではあるが、多くの料理がかなり辛い。
昼食後、バスで移動して日曜日に行われる動物市へ。Lonely Planetにもこれを見ないとカシュガルの訪問は完結しないと書かれている名物。以前はもっと街の近くで行われていたが、現在は少し離れたところにある。
動物市というのはその名の通り家畜を売買する市場で、近づくにつれてこれらを運ぶ車にたくさん出会う。市場では動物毎にエリアが分けられていて、牛と羊が同じくらいの広さ。ヤクはやや狭い。土埃が舞う中、動物が並べられている。
何のために売買されているのかというと、基本的には食べるためとのこと。犠牲祭では動物を屠るが直前になると価格は高騰するため、早い時期に買って置いた方がお得らしい。また、かつては肉屋などなかったので、こうして売買されていたとのこと。
バスで移動してアパク・ホージャの墓へ。ここはイスラム教スーフィズムの指導者アパク・ホージャがこの地に来た際に地主がそのための建物を寄進し、その後墓になったというもので、一族の墓が納められている。
エイティガールモスクと異なり、鮮やかなタイルで装飾されているが、やはりムカルナスなどはなく、中の装飾も簡素なものとなっている。
彼にあやかるということで、隣地は墓地となっている。墓はビニールハウスのような形のもので、字も書かれていないし、みんな同じ土色なので端から見るとどれがどれだけわからない。
アパク・ホージャの孫にあたるイパルハンは清の乾隆帝の妃となり、良い香りがすると言うことで香妃と呼ばれた。彼女もここに葬られているとされて香妃墓とも呼ばれるが、実際にはそんな遠距離に葬ることはできず、関連の遺品が持ってこられただけらしい。
そのため、香妃墓として有名で、彼女は漢人にとっては民族共同の象徴とされている一方、ウイグル人にとっては北京にとらわれた抵抗のリーダーとなっている。
墓がある建物以外にも複数の建物があり、装飾が施された柱や天井が見られる。イスラム教の建物だが、仏教時代からの影響も見られるという。
バスで移動して日曜バザールへ。大きなバザールで、商品別に分けられた屋内の部分の他、外の広場や近隣の道にも店が並んでいる。
ここは自由時間もあって歩いたが、相当賑やかだった。シシカバブを焼いている店や、ヨーグルトのような飲み物を売っている店もおもしろいが、強い印象を受けたのは女性のための服(布)の売り場。原色の布が売られる横を色とりどりの服やスカーフの女性が行き交う様は、いかにも中央アジアという気がした。特徴的な模様はエトレス(アトラス)と呼ばれるもので、西トルキスタンでも見られるもの。
その他、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器などの家電製品を売る一画もあった。洗濯機はなぜか腰くらいまでしかない小型のものも多く、全自動らしきもの以外になつかしい二槽式のものもあった。
ここでも日本語で表示している店があった。
バスでホテルにチェックインした後、再びバスで英国領事館だった場所のレストランで夕食。
中華料理だったが、やはり少々辛め。
昼間にツアーで買ったハミウリを出してもらったが、プリンスメロンのような味だった。ハミウリにもいろいろな種類があるようだ。
夕食後バスでホテルに戻ったが疲れて寝てしまった。
2014年8月11日(月)、バスでカシュガルを出発し、ヤルカンドへ向かう途中にメルケトの民家(マンションの一室だった)に立ち寄って昼食。
盆と水差しで手を洗ってから食事をする。このとき濡れた手を振って水を切ってはならず、布でぬぐうというマナーがある。また、ウイグル人の主食のナンについても、「コーランより大切」とされ、買うときも選んではいけないなどいろいろなマナーがあるようだ。
最初はドライフルーツや何などがたくさん並べられ、これで全てかと思ったら、その後、ピラフ風のポロ、串焼き肉のシシカバブが出てきた。
バスでメルケトを出て、郊外の農村のヤンタック村でのドランムカムを鑑賞。
ムカムというのはウイグルの音楽のことで、ドランムカムというのはその一種。4人の男性がそれぞれ楽器を奏でながら歌うが、歌うというより叫ぶ感じで、かなりロックだ。連日やっていて声がかれていた、という話だが。音楽に合わせて踊ってくれたが、珍しく男性と女性が一緒に踊るものとのこと。手を横に回しながら右に左に回るもので、女性は手を顔のあたりまで挙げたりする。かなり盆踊りに近い素朴な印象。案の定、参加を求められ少し踊った。
村の街灯には太陽電池が着いている。
2014年8月11日(月)にカシュガルを出発し、メルケトの民家での昼食、ヤンタック村でのドランムカム鑑賞の後、ハンディの月曜バザールを経てヤルカンドへ向かった。
走っているとしばしば水路もあり、水を引いて農地が広がっている。トウモロコシの他、ひまわりもよく育てていて、きれいに咲いている。
生産集団という仕組みがあり、開拓した土地で農業を営み、ただし給料として収入を得るという。人民公社を思い出させる。
タリム盆地の南側、崑崙山脈の山麓に位置する新疆ウイグル自治区の都市。シルクロードの西域南道にある。また、ここから北インドへ抜けるルートもある。
旅行前の2014年7月に暴動が起きたとされていて、街に近づくと携帯電話のローミングでもデータ通信ができなくなった。
東トルキスタン旅行としてカシュガルから到着し、2014年8月11日(月)-8月12日(火)の2日間滞在し、ホータンへ出発。
看板などは中国語とウイグル語が併記されている。カシュガルよりさらにウイグル人が多く感じる。
ツアーに含まれていたホテルで2014年8月11日(月)-8月12日(火)に宿泊。
建物は大きく、設備も整っていたと思われるが、メンテナンスされていないのか古さを感じさせるところがある。着いたときはエレベーターを直していた。
2014年8月11日(月)にカシュガルのホテルをバスで出発し、メルケトでの昼食、ヤンタック村でのドランムカムを経て、ハンディの月曜市という田舎のバザールを訪問。ヤルカンドに近く、安全を確認してからの見学。
ここは観光客もなく、ウイグル人ばかりなので、生活感があっておもしろかったが、一方で、歩いているとじろじろ見られて、ちょっと居心地が悪かった。
ロバ車を止める駐車場のような場所がある。
夕食前について、朝食前に出発したので、あまり街は観光できなかった。
ホテルにチェックインした後、歩いて近くのウイグル料理のレストランで夕食。なので、酒はなし。ウイグル風うどんのラグメンも含め、それほど辛くなく、おいしかった。
周囲の客もウイグル人ばかり。
2014年8月12日(火)にヤルカンドのホテルをチェックアウト、バスで近くの食堂に行って小籠包、粥などを朝食に食べ、そのままホータンへ向かった。
タリム盆地の南側、崑崙山脈の山麓に位置する新疆ウイグル自治区の都市。シルクロードの西域南道にある。
中国で珍重される玉の産地として古くから有名。また、絨毯や絹織物でも有名。中国が門外不出としていた蚕を、中国からホータンに嫁入りする王女様が帽子に桑と蚕の卵を隠してホータンに伝えたという伝説がある。クルミでも有名であり、道沿いにもクルミの木がよく見られる。
ホータンのウイグル人はイラン人に似ていると言われているそうだ。確かに、かなり洋風の顔をした女性も居た。
東トルキスタン旅行として、ヤルカンドから到着し、2014年8月12日(水)-8月13日(木)の2日間滞在し、庫車へ向かった。
看板などは中国語とウイグル語が併記されている。
2014年8月12日(水)にヤルカンドからバスで到着。ヤルカンドを出てホータンに近づくと、乾燥した景色になってくる。
ツアーに含まれていたホテルで2014年8月12日(水)-8月13日(木)に宿泊。
部屋の内装はきれいだったが、バスルームはちょっと。生活習慣の違いかも。
時間が無く、泊まるだけで街を歩いてみることはできなかった。
昼過ぎにホータンに着いてからレストランでポロ、ラグメン、ヨーグルトを食べた。トイレは・・・だったが、内装も含めてこぎれいなレストラン。辛い中華料理よりも量もほどほどでちょうど良い感じ。ヨーグルトは日本のプレーンヨーグルトとほとんど変わらない。
建物は立派だが、1フロアのこじんまりとした博物館。先史時代の遺物から、仏教時代、イスラム時代のものが展示されている。ホータンは玉で有名で、入口にも大きな原石が展示されているが、織物についても古くから盛んだったことが分かる。
ミイラも女児のものと男性のものが展示されている。彼らはコーカソイドだったらしい。
ホータンの郊外にあるマリカワット故城は、于�え剃�国(うてんこく)のものと考えられている。露出しているのは仏教遺跡で、ガイドからは夏の宮殿だったという説明を受けた。実際の遺跡は地下7mに埋まっており、まだ発掘調査が行われていない状態とのこと。足下を見ると陶器片のようなものが散乱した状態。
バスが乗り入れられる場所から遺跡が露出しているあたりまでは少し距離があり、集まってきた地元の人の電動バイクで移動した。少し前まではロバ車だったらしく、徐々に近代化されている?
マリカワット故城の横に流れる川はユルンカシュ川で、玉がとれることで知られている。しかし、川の周囲はこれでもかというほど掘り返されていて、素人にはとても見つかりそうにない雰囲気。
川は意外に流れが激しく、また、泥で濁っている。川縁にも泥が堆積している。地元の子供はこの水を飲んでいたが・・・。ユルンカシュ川はホータン川に合流する。ホータン川はタクラマカン川に合流して消えてしまう尻無し川だが、雪解け水が流れ込む季節は砂漠を横断して北側のタリム川につながるそうだ。
宿泊している慕士塔格大酒店で中華料理の夕食。大広間のレストランではなく、小さな個室で。ここでようやくツアーで同行の皆さんと自己紹介。
2014年8月13日(水)にホータンのホテルをチェックアウトして、バスで第二砂漠公路でタクラマカン砂漠を北上してクチャへ。
新疆ウイグル自治区の都市。シルクロードの西域北道にある。
3世紀から9世紀まで仏教が栄え、仏教を信仰する亀茲(きゅうし、きじ)国があったため、仏教遺跡が多く残されている。唐の時代から現在まで、歌舞でも有名とのこと。現在では杏でも有名。
クチャのウイグル人はモンゴル系の顔つきが強いと言われる。
近代になってからは小さな街だった。しかし、1982年に石油、天然ガスが発見されたために急速に発展している。
東トルキスタン旅行としてホータンから到着し、2014年8月13日-8月15日の3日間滞在し、ウルムチ経由でトルファンへ向かった。
看板などは中国語とウイグル語が併記されている。
ツアーに含まれていたホテルで2014年8月13日-8月15日に宿泊。
中心街に近い場所にある大きなホテルで、部屋に絵も飾ってあったりして、設備も整っている。
14日の朝は、停電していてびっくりしたが、地区全体が停電していたらしい。
2014年8月13日(水)にホータンから第二砂漠公路でタクラマカン砂漠をバスで北上。
タクラマカン砂漠では石油が見つかったために道路が引かれ始めている。そのうち、公路と呼ばれているものの二番目がホータンからアラルを結ぶ第二砂漠公路。
道の両側にはアシのようなものでできたメッシュや柵が設けられ、道が砂漠に埋没することを避けようとしている。
灼熱の砂丘を想像していたら、少し違っていた。まず、ぽつぽつと胡楊(コトカケヤナギ)の木が生えていて、タマリスク(ギョリュウ)も生えている。さらにはアラルを過ぎてホータンに向かうあたりでは雨が降り出した。雨男過ぎる。
砂漠の途中に食堂という感じの場所があり、そこでラグメンで昼食。注文してから作り始めたようで、打ち立て?のラグメンを食べた。
ラグメンはうどんと具が別々に出てきて、これをかけて食べる。最初からかけて出せば良いのに。
クチャに近づいたあたりのチマンで水曜バザールを見学。十字路を中心とした路上のバザールだが、天気が悪くなってきたためにかたづけられ始めていた。スイカやメロンなどの果物を売っているのはいつものパターン。食べ物を売っているエリアでは、またいろいろな料理が売られていたが、山羊の頭の骨を並べている店もあった。ちまきのようなものを売っているおじさんがいたので買ってみたが、普通の味というか、味がしなかった。また、ちまきを作っている手でお釣りをくれたので、お札同士がくっついてしまった・・・。。
羊の肉をぶら下げている露店もあり、見ると後ろに生きた羊がいる。もしやと思って店の中を覗いたところ、生きた羊と、肉としてぶら下げられたものの中間段階のものがあった・・・。魚の活け作りのようなものか・・・。
クチャのホテルに到着してから、ホテルのレストランにて中華料理で夕食。
2014年8月14日(木)はクチャ近郊の観光。朝食後バスで出発し、クチャ大峡谷と塩水渓谷を見学。山に木が生えていないため、地層がはっきりしている。山を形成した際の力によるものか、ほとんど地層が立っているものもある。
三蔵法師玄奘が訪問した塩水渓谷もこのあたりとなる。
クチャ周辺には仏教遺跡が多く残っており、キジル千仏洞はその一つ。世界遺産「シルクロード : 長安=天山回廊の交易路網」を構成する一つ。上流の千仏洞と呼ばれており、クムトラ千仏洞は下流の千仏洞と呼ばれる。敦煌の莫高窟より200年古いという。
岩肌にいくつもの石窟がうがたれて仏像や壁画あったはずだが、現存するの236個の石窟のうち、壁画が保存されているのは70~80程度しかない。それ以外はこの地がイスラム化した後に破壊されたり、ドイツの探検隊に無残にも切り取って持ち去られていたりしてしまっている。四角く切り取られていたり、顔が削られていたり、人物の金を使った袈裟の部分が三角に削られていたりする。
荷物をロッカーに預け、ガイドに引率されて見学する。入口にはこの地出身で多くの仏典を漢訳した鳩摩羅什の像がある。
残念ながら千仏洞の中は撮影できず、見学する石窟もガイドが指定したものとなるので、好きなものを見ることはできない。石窟には番号が付されていて、今回見学したのは38、34、32、27、10、8、17の7つ。
38は特別窟(追加料金がいる?)で、音楽窟とも呼ばれる。歌舞で有名なこの地らしく、音楽を奏でる様子が壁画になっている。色が残っていて、青はラピスラズリによるもの。
その他34には鬼子母神が描かれていた。27には座像があったと言われる。壁画を見ると、交脚と呼ばれる足の組み方をしていて、これは遊牧民由来とも言われる。髭もあり、亀茲国の人はヨーロッパ系の風貌をしていたことが分かる。10は人が住んでいたと考えられる窟、8は男女の飛天が描かれた窟で男性は五弦の琵琶を持っている。五弦の琵琶は日本に伝わったもの。17には本生伝が示される。
千仏洞というのは、仏の絵がたくさん描かれている洞という意味。キジル千仏洞の天井の画は沢山の菱形に区切られ、その中に独立した画が描かれたもの。同じ画をたくさん描く中原のものとは異なっているという。
壁画の中には、亀茲文字が書かれたものもあった
見学後、すぐ近くのレストランにて中華料理で昼食。
昼食後、バスでスバシ故城。鳩摩羅什が説教し、三蔵法師玄奘も訪問し、その際には5,000人の僧がいたと言われるが、その後の宗教戦争で破壊され、現在では一部が残っているに過ぎない。入ったところには大きな仏像があり、上に仏の足跡が残されている玉があったという。
世界遺産「シルクロード : 長安=天山回廊の交易路網」を構成する一つ。
クチャ川を挟んで東西に分かれるが、見学したのは公開されている西部分。対岸の東部分の方が建物が残っているように見えるが。
クチャのホテルに戻った後、食事前に時間があったため、バスでクチャ大寺まで。というか、ルートが違って近くまで行けたが、そこから歩いた。バザールをやっている団結新橋を渡り、店の女性に場所を聞いたが釣れない反応。通りがかったおじいさんに話しかけたが無視。仕方が無いので、グループで食事をしている若者に聞いて道を教えてもらった。
時間が遅く、閉まっていて中には入れず、外観だけの見学でちょっと残念。タクシーでホテルへ。
宿泊しているホテルで中華料理を食べた。前日と同じレストランだが、料理は変わっていた。しかし、食材の種類は限られているので何となく似た料理ではあった。
夕食後、寝る前にクチャの街を散策。料理を出す露店が集まった一画があり、とても賑やかで繁盛している。やはり肉が多く、スカーフ姿の少女がうつむいて黙々と串にかぶりついていたりする。肉食だ。
2014年8月15日(金)に、ホテルをバスで庫車空港に向けて出発。街の中心部を離れると、まだ古い平屋の集落が見える。また、おもしろいのは、みんなほうきを持って掃除をしているところ。バスからの写真はちょっと切れてしまったが。何でも、この街の人は朝家の周りに水をまいて掃除をする習慣があると言うこと。素晴らしい。
庫車空港でカシュガルから一緒だった運転手のイルハンさんとはお別れ。空港から中国南方航空CZ6874でウルムチに向けて出発し、そのまま夜はトルファンへ。
新疆ウイグル自治区の都市。かつては高昌国があり、三蔵法師玄奘も訪れている。
ブドウで有名で、ほとんどブドウしか作っていないように見える。また、低地にあり、夏の酷暑でも有名。あまりに暑いので、ミイラが残っている。
東トルキスタン旅行としてクチャからウルムチを経由して到着、2014年8月15日-8月16日の2日間滞在して再びウルムチへ。
2014年8月15日(金)にクチャからウルムチに到着し、新疆ウイグル自治区博物館を見て昼食後、バスでトルファンに向けて出発。
高速道路沿いに風力発電がたくさんあった。
トルファンに着くと、農地という農地はすべて葡萄畑。
トルファンに着いてすぐに交河故城を見学。これも世界遺産「シルクロード : 長安=天山回廊の交易路網」を構成する一つ。
トルファンには交河故城と高昌故城の二つがあり、どちらも古くから繁栄した。交河故城はその名の通り、二つの川に挟まれた、柳の葉のような台地に築かれている。自然の要塞ともいえるが、車師前国の都であり、麹氏高昌国の時代にも城が築かれた。唐の時代にも建築が行われた。元代に破壊され、廃墟のようになっているが、役所部分、住宅部分の他、仏教の寺院も多く残されている。
とにかく暑く、45℃近い。ただ、昨今の新疆ウイグル自治区の情勢の影響か、ほとんど観光客がおらず、貸し切りのような感じ。
当時ももちろん暑かったので、お役人も夏は地下で仕事をしたらしい。トルファンの民家も、最近まで夏は地下室で寝ていたそうだ。
トルファンの街に戻ってきて、民家レストランで夕食。盆と水差しで手を洗ってから食事をする。このとき濡れた手を振って水を切ってはならず、布でぬぐうというマナーがある。
葡萄を育てており、葡萄棚の下で夕食。葡萄棚の下で父娘が民族舞踊を見せてくれ、またお約束のように手招きされて一緒に踊った。
葡萄の直売が行われ、種付きなどいろいろな種類があったが、普通のものをお土産に購入、バスでホテルへ戻った。
ツアーに含まれていたホテルで2014年8月15日-8月16日に宿泊。
大きなホテルで、部屋にはパソコンまで置かれていた。
トルファンは酷暑と葡萄の街。街の中にも葡萄棚で覆われた道が長く続いている。
2014年8月16日は、朝ホテルをバスで出発して火焔山へ。ここは西遊記に出てくる場所で、木も生えておらず、とても温度が高くなり、燃えているように見えることが名前の由来。麓で石油をくみ出している。
ベゼクリク千仏洞を見学。やはりここも破壊が痛々しい。イスラム化された後に破壊されたことに加えて、文化大革命の際にも破壊されているらしい。
ここも写真撮影はできない。20、26、27、31、33、39窟を見学。ここはクチャのキジル千仏洞と比較して、中原の影響が強い。千仏洞でも、いくつもの菱形の中に別の絵が描かれているのではなく、列状に同じ画が描かれている。
20窟は大きいが、絵は足の部分しか残っていない。27窟は座像の跡が残っている。31窟と33窟は絵がかなり残っている。33窟は八王分舎利で、各地の王が釈迦の入滅を見守っている。それぞれの風貌や表情が違い、結構写実的。39窟は他と異なり、真ん中に台がある様式。
これも世界遺産「シルクロード : 長安=天山回廊の交易路網」を構成する一つ。前漢の屯田兵が城を築き、麹師高昌国の都としても繁栄した。
歩いている観光客もいるが、とにかく暑いので、観光地にあるようなカートで周囲を回る。
交河故城と違って台地ではないのでただっぴろい。元の末期から明の初期に破壊され、残っている部分は少ないが、玄奘が説教をした場所などが残っている。
高昌国から唐の時代まで墓地となった。地下に部屋を掘った形となっていて、ここも撮影はできない。いくつもあるらしいが、見学したのは3つほど。葬られた人の人生や教訓などが壁画に描かれている。
2014年8月16日に、アスタナ古墳を見た後、トルファン市内に戻ってレストランで中華料理の昼食をとってから、バスでウルムチへ出発。
蘭州は甘粛省の首都で、人口300万人を超える大都市。黄河沿いに細長く広がり、石油が採れることから煙突が並んでいる。
蘭州ラーメンが名物だが、これは豚肉に使っていなくて、イスラム教である回族がやっていることが多いとのこと。
河西回廊旅行の最初の都市として、成田から上海を経由して2015年9月19日(土)に到着、1泊して9月20日(日)に武威へ。
2015年9月19日(土)、仕事が終わらない上に、前日飲んでラーメンを食べて辛かったが4時に起きて、スカイライナー1号で成田空港第1ターミナルへ。
中国国際空港CA-158の737-800で成田空港を8:55発、11:20頃に上海浦東空港に到着。満席で一番後ろの席だった。上海浦東空港では一度荷物を受け取り、再度チェックインして搭乗券を受け取らなければならなかった。
上海浦東空港での長い待ち時間の後、中国国際航空CA-1939のA320で上海浦東空港を16:20発。機内食はイスラム対応(清真)だった。19:20頃に蘭州中川空港に到着、バスでホテルの長信国際酒店へ。結構距離があり、1時間くらいかかる。到着前に雨が降ったらしく、ひんやりとしている。
成田を発ち、蘭州に着いたのは2015年9月19日(土)の夜。翌日の9月20日(日)は武威に向かう前に甘粛省博物館を見ただけなので、ほとんど街を見ることはできなかった。
2015年9月20日(日)起床。睡眠不足が続いていたせいか、この日も起きるのが辛かった。朝食後、ホテルを出発して開館時間から甘粛省博物館を見学。
大きな博物館で、恐竜や古生物の展示から、シルクロード関連の展示、中国共産党の活躍の展示まである。
有名なのは「銅奔馬(馬踏飛燕)」で、それほど大きくないが、一本足で像を支える躍動感ある造形。馬や戦車の隊列の銅製品もあり、これらはすべて武威の雷台で見つかった後漢の墳墓から見つかったもの。防空壕を掘っていて見つけたらしい。
その他、陶器や銅製品も多く展示されている。この酒器は角のような突起が上に延びているが、これは昔の人は髭を生やしていたので、それが邪魔にならないように飲むためのものだそうだ。銅鐸のようなものも、楽器として展示されている。
唐の時代の商人を模した陶器は、明らかに風貌が漢人と異なり、ソグド人なのだと思われる。
このタイプの陶器がたくさんあった。地中海のアンフォラと比較してずんぐりしていて、耳のような取っ手は下の方についている。なんで皆こんな形をしているんだろうと思ったが、後で西安の博物館にあった解説によれば、ここに紐を結んで上から水面に吊して、水を汲むのに使ったらしい。このようにずんぐりした形だと、口が水面から離れずにうまく水を汲めるらしい。
ツアーで2015年9月19日(土)~9月20日(日)に1泊した大型ホテル。朝食では名物の蘭州ラーメンの実演と提供が行われていた。
2015年9月20日(日)に武威に向けてバスで出発。
甘粛省の都市で、漢が置いた河西四郡の一つ。涼州とも呼ばれた。金の張掖、銀の武威という言葉があった。祁連山脈からの水に恵まれている。
河西回廊旅行として蘭州から2015年8月20(日)に到着、1泊して8月21日(月)に張掖、酒泉を経由して嘉峪関へ向かった。
2015年8月20(日)に蘭州を出発し、高速道路へ。途中永登県のレストランで昼食をとり、再び高速で武威へ。
武威の街のど真ん中にある大型ホテル。賑やかな大通りの入口にあるので、夜も賑やか。
雷神を祀った道教の寺(観)。
8.5mの土台に載っているが、この土台の横に防空壕を掘ろうとしたところ、後漢時代の墳墓が見つかった。墳墓の中はひんやりと涼しい。ここから馬踏飛燕や隊列の像が発見されたが、これらは甘粛省博物館で展示されている。その代わり?馬踏飛燕と隊列の複製品が墳墓の(本当は発見された場所ではない)一番奥に置かれている。
さらに、この雷台へ向かう広場にも巨大化したこれらの像の複製が置かれている。
大雲寺はこの地域をおそった大地震によって倒壊し、明代の鐘楼のみが残されている。鐘楼には上ることができ、鐘も見ることができる(触ることもできる)。鐘には銘文がないが、表面の飛天の絵の特徴から、唐時代のものではないかと考えられている。
甘粛省最大と言われる文廟。内部は、孔子廟、文昌宮、儒学院に分かれているというが、見学したのは前者2つ。人はあまりおらず、ひっそりとしていた。
武威のレストランで夕食。この旅行中は禁酒しようと思っていたが、二日目からあっさりビール、ワインを飲んでしまった。
少し酔っ払っていたが、ホテルでシャワーを浴びた後、武威の繁華街をぶらぶら歩いた。広場ではイベントをやっていたり、食堂街も賑やかだったが、10時頃だったので、多くの店が片付け始めていた。
この日は朝起きるのも辛かったが、バスの移動中も寝てしまい、今ひとつすっきりとしない体調だったので早めに就寝。
2015年8月21(月)の朝、ホテルをチェックアウトして、張掖、酒泉を経由して嘉峪関へ向かった。
甘粛省の都市で、漢が置いた河西四郡の一つ。甘州とも呼ばれた。金の張掖、銀の武威と呼ばれた金のほう。マルコ・ポーロも1年近く滞在したそうだ。
河西回廊旅行として、2015年8月21日(月)に武威を出発し、嘉峪関へ向かう途中で寄った。
2015年8月21日(月)は500kmの移動。
バスで武威のホテルを出発し、高速道路で昼頃に到着。途中の車窓からは、明時代の万里の長城が見えた。
大きな涅槃像がある。文化大革命時に紅衛兵によって寺の文化財が破壊されてしまったが、涅槃像は残っている。この涅槃像も爆破しようとしたらしいが、穴を開けたところ、内部に隠してあった宝物に夢中になってしまい、爆破を逃れたとのこと。ちなみに、涅槃像はきちんと(?)北向きに寝ているようだ。
その他、寺には古い経が残されており、これは一人の尼僧が隠して守っており、彼女の家を取り壊そうとした際に発見されたとのこと。
歩いて木塔まで。レンガの塔の周りに木でできた屋根が取り付けられている。大風(!)によって破壊され、再建された。以前は台座毎回転するようになっていたとのこと。
張掖のレストランで昼食。うどんを短くしたような麺が出てきた。近くで売っていたブドウも出てきたが、味はあっさりしている。
バスで七彩山へ。泥が堆積してできた地層が褶曲して地表に現れていて、鉄イオンの価数の違いから、異なった色に見えるという。
雨が降ってきて残念だったが、湿ったために色が鮮やかに見えた。
2015年8月21(月)には続いて酒泉を経由して嘉峪関へ向かった。
甘粛省の都市で、漢が置いた河西四郡の一つ。粛州とも呼ばれた。
河西回廊旅行として、2015年8月21日(月)に武威を出発し、嘉峪関へ向かう途中で寄った。
2015年8月21日(月)に張掖から七彩山を見てから、高速道路を走って到着。
途中の高速道路には並行して新幹線が走っていた。6両編成で、あまりスピードは出していない。ところどころに新幹線の駅があるが、周囲に何もないところにぽつんとある。
2015年8月21日(月)に酒泉では、ライトアップされた鐘鼓楼の写真を撮ったのみ。
この鐘鼓楼は東西南北に、「東迎華岳」、「西達伊吾」、「南方祁連」、「北通沙漠」の額が掲げられていることで有名。
2015年8月21(月)に嘉峪関へ向かった。
甘粛省の都市。
河西回廊旅行として、2015年8月21日(月)に武威から到着し、1泊して敦煌へ向かった。
2015年8月21日(月)に武威から、張掖、酒泉を経由してバスで夜に到着。
賑やかな通りに面した大型ホテル。ホテルのドアにかけるサイン、日本語にしようとしているようだけど・・・。
1泊した2015年8月22日(火)朝、町の名の由来である嘉峪関を見学。
これは万里の長城の西端にある明時代の関所。つまり、明時代の支配領域はここまで押し戻されていたということで、ここより西の敦煌は明の領域ではなかった。
ここに関所が設けられたのは、河西回廊の両側の山がこの場所で狭まっているため防御しやすいかららしい。この関所から山に向かって城壁が延びており、侵入を防いでいる。
建物も修復されていて、中には人形の展示があったり、当時の装束をした人が歩いていたり、ちょっとしたテーマパークのようになっている。城壁の上を歩くことができ、朝方で寒かったが天気が良く、祁連山脈がとてもきれいに見えた。
2015年8月22日(火)に嘉峪関のホテルをバスで出発し、嘉峪関を見学してから敦煌に出発。
甘粛省の都市で、漢が置いた河西四郡の一つ。沙州とも呼ばれた。
河西回廊旅行として、2015年8月22日(火)に嘉峪関から到着し、3泊して西安へ向かった。
2015年8月22日(火)に嘉峪関からバスで到着。
途中、楡林窟、唐の時代の玉門関を見てから敦煌の街に入った。
その名の通り、ロッジ風のホテル。ただし、中は普通のホテル。反弾琵琶の天女の絵が飾られ、ランプシェードも天女で雰囲気抜群。市内からは少し離れているが、鳴沙山には近く、朝食は鳴沙山が見える屋上でとる。
敦煌には豪華に3泊。嘉峪関からバスで敦煌に到着した2015年8月22日(火)に楡林窟、玉門関を見学し、8月23日(水)は莫高窟、白馬塔、敦煌市博物館、鳴沙山と月牙泉、敦煌夜市を見学。8月24日(木)は玉門関、漢代の長城跡、陽関、夜光杯工場を見学。
楡林窟の近くの食堂で、新疆ウイグル自治区の名物であるラグメンで昼食。レストランではなく、食堂といった庶民的な店。ラグメンを作っているところを見ることが出来た。
楡林窟は楡林川の両側の断崖絶壁に窟が並んでいる。莫高窟の姉妹窟とも呼ばれるようだが、見学者もまだ少なく、混雑していない。
駐車場は絶壁の上側にあり、階段を川に向けて降りていったところに入口がある。そこから日本語を話す研究員がガイドして、いくつかの窟を見せてくれる。今回は、12、13、14、15(中唐)、19、25(中唐)、3窟(西夏)を見学。いろいろ説明してくれたのだが、うっかりメモ帳を持たずに手ぶらで見学してしまった・・・。
これまで新疆ウイグル自治区で見たキジル千仏洞、ベゼクリク千仏洞と比較して、保存状態が良くてびっくりした。
敦煌博物館にはこの25窟を復元した絵が展示されている。中唐のものだが、明確な線遠近法が使われている。
道沿いに唐の時代の玉門関があり、中には入れないので外から見学。翌々日に訪問する漢の玉門関に比べるとよく残っている。
その後、いよいよ敦煌へ。
敦煌市内のレストランで夕食。その後ホテルにチェックインしてこの日は終了。
敦煌2日目の2015年8月23日(水)はいよいよ莫高窟。
莫高窟を訪れる観光客は中国人も含めて急増しており、温度や湿度から壁画を守るため、見学客を1日6,000人に制限している(それでも多いが)。公開している窟も少なくなってきている。現在、研究者によるレプリカを作成中ということで、それが出来ればさらに公開される窟は少なくなる見通しとのこと。
入場料を支払うと、ガイドに引率されて見学する。どの窟を見るかはガイドが決定する仕組みのようで、好き勝手に見ることは出来ない。これはキジル千仏洞、ベゼクリク千仏洞と同じ。
さらに、追加料金が必要な有料窟がある。これは結構な値段で、今回は、3つで600元も必要だった。
今回見学した窟は全て入口が東向きの崖にあるので、入って正面が西側、左が南、右が北ということになる。
莫高窟の見学方法は最近変更されていて、最初に映画館のような施設で映像を見ることになっている。まず、大型画面で結構凝った映画のような筋立ての映像を見る。次に、円球形のスクリーンでの3D映像。視界の限りに映像が映し出されるので、本当に窟に入ったように前だけではなく、左右、上を見ることが出来、素晴らしい。
映像で予習した後はシャトルバスで移動し、いよいよ見学になる。
初唐
9層の楼閣の建物は莫高窟のシンボルになっている。もともとは3層だったものを清の時代に5層とし、中華民国時代に9層とした。
この中には巨大な弥勒菩薩(通称:北大仏)があり、入口から入ると上を仰ぎ見ることになる。石胎泥塑(せきたいでいそ)といって、石に泥を塗って整形して作られている。工事中のせいか、あごのなるとのようなひげ模様が見えるくらいで顔はよく見えなかった。
盛唐
入ると巨大な棺桶のようなかまぼこ形の空洞が左右(南北)に広がっており、南を頭にして巨大な涅槃仏がある。これも石胎泥塑で作られている。
入口側の東壁には、左右に白象に乗った普賢菩薩と、獅子に乗った文殊菩薩が描かれている。
北宋?
後に修復されている。像の文殊菩薩、普賢菩薩がある。壁画は西夏のもの。
盛唐
この窟は工事中だったが、運良く見ることが出来た。
通称南大仏と呼ばれる石胎泥塑の弥勒大仏。
手は女性のように指が長く優雅。莫高窟最大の飛天が描かれている。
盛唐
塑像は清の時代のもの。
左右(南北)の壁には観無量寿経変の極楽浄土が描かれ、それぞれ線遠近法が使われているが、北壁のものがより深い遠近で描かれている。上空をひらひらと飛天が舞っている。描かれた建物は日本の平安時代の寝殿造りや平等院鳳凰堂を思わせる。
西魏
中央の像は頭のみ清の時代に修復されたもので、法隆寺の百済観音のように優しい顔をしている。
壁画は、上には阿修羅が描かれ、左右の手に太陽と月を掲げている。また、雷神風神も描かれている。
黒い顔つきはキジル千仏洞のようで、アフガニスタンやインドの影響が見られる一方、中国の神も描かれるなど、インドの様式、中国の様式の両方が見られる。
青色の顔料はアフガニスタンのラピスラズリによるもの。
天女は筋肉質で、舞っているというより、まるで体操をしているように見える。
北魏
入口から入るとまるで切妻屋根平入りのような天井の形になっているが、軒は手前に寄っている。つまり、手前にもともとあった前室は失われている。
正面の西壁には釈迦仏と多宝仏が二つ並んでいる。力強い体つきと身体に貼り付いた服は、バーミヤンやガンダーラの影響を受けている。
南北の壁には小さな塑像が並ぶが、足をX型に交差させて座る交脚が多い。この形式はインドから伝わったものだが、日本の仏像には見られない。確かキジル千仏洞、ベゼクリク千仏洞にもあった記憶がある。
北壁の禅定仏像は笑っているような穏やかな表情を浮かべており、「敦煌のモナリザ」と呼ばれているそうだ。
北涼
北涼時代の敦煌で最も古い窟。当時のものがそのまま残されている。
正面の西壁中央には交脚の弥勒菩薩が据えられている。これはインド、ガンダーラの影響を受けたもの。耳だけでなく髪の毛も肩に掛かるほど長い。
天女はズボンを履いており、舞っているというより体操しているようにくの字に身体を折り曲げている。
壁画には鳩のために腿の肉を削って与える本生図や、釈迦が出家前に老人や病人に会う様で生老病死を表現した仏伝図が描かれている。ちなみに本生図は南北朝の時代に多いとのこと。
初唐
この窟は、ロシア革命時にロシアから逃げてきたロシア人をかくまうために使うというとんでもない扱いを受けてしまった。ここに住んでいたロシア人が煮炊きをしたために、天井が黒くすすけてしまっている。
像は新しく修復されたもので、場所だけもとのものと同じになっている。
南壁の説法図はこれは釈迦の説法図なのか阿弥陀の説法図なのかはっきりしない。何と言っても有名なのは左の脇侍の観音で美人として人気がある。頭に化仏があることから観音であることが明らかで、鉛を顔料に使わなかったために黒変せずに白いまま残っており、瀝粉堆金(れきふんたいきん)という方法で、まるで立体のような金の装飾がなされている。
観音の後ろの人物は、透き通ったガラスの容器を捧げ持っている。
北壁は釈迦説法図で、ここに描かれたきんとうんに乗ったような天女は、法隆寺金堂の壁画を思い起こさせる。
盛唐
敦煌博物館に復原された模型がある。
塑像も壁画も清時代の修復を受けていない。塑像は木胎泥塑。
本尊は釈迦で、結跏趺坐、説法印。
左右に大迦葉と阿難を配し、前者は歯も抜けて頬がこけた老人として表現され、後者は若々しい姿で表現されている。彼らは靴を履いている。
そのさらに外側の左右には、文殊菩薩と弥勒菩薩を配しているが、これが女性っぽくなまめかしく、唐の時代の美人としてよく知られている。色は白く、小首をかしげたS字型で立ち、腹は肉付きが良い。彼女らは裸足である。
さらに外側の左右には目をむいた守護神が立ち、彫りが深い顔立ちの胡人を踏みつけている。
南壁に描かれた観音信仰の絵も面白い。シルクロードの道中、盗賊に襲われても観音様に祈ると助かったり、牢屋に閉じ込められても観音様に祈ると脱出できたり、処刑されようとしていても観音様に祈ると刀が粉々になって助かったり、船で遭難しそうになっていても観音様に祈ると助かったり。
北壁に描かれた観無量寿経変では、極楽浄土を描いていて、頭が人間、身体が鳥の化け物が描かれている。
晩唐
この窟は莫高窟で特別な意味を持っている。16窟の北壁は密閉されていたがここから1900年に大量の文書を納めた17窟が偶然見つかり、イギリスのスタイン、フランスのペリオ、日本の大谷、さらにはロシア、アメリカによって大量の文書が持ち出されてしまった。そのため、これらの文書は現在世界中に存在して研究されている。
16窟はかなり広く、壁画の多くは西夏時代に描かれたためにこの時代特有の緑青に彩られている。
これに対して17窟は「物置」よりは広いかというくらいの広さしかなく、洪辨(こうべん)という僧侶の像が置かれている。背後には洪辨の像と一体化したような壁画が描かれ、像の左右にそれぞれ人と木がある。右側の比丘尼は洪辨を団扇で扇いでいるようであり、両側の木には水筒とかばんがかけられている。
初唐
最後の窟。像は清時代に修復を受けている。
天井の蓮花飛天藻井図は、蓮の花の周りを4人の天女が反時計回りに泳いでおり、その外側も多数の天女が反時計回りに飛んでいる。そのため、全体がぐるぐると回っているように見える。
東側の入口の上の天女はまるで水泳の飛び込みのような格好で飛んでいて面白い。
鳩摩羅什がこの地を訪れた際に、経典を担がせていた白馬が死んだため、それを悼んで建てられたという塔。基壇は当時のものだが、ほとんどの部分は大地震(1927年のものか?)で倒壊してしまい、再建したもの。
年代別に展示してあり、歴史をよく理解することが出来る。時期によってはこの地域の方が中原より政治的に安定していたこともあって、敦煌は大いに栄えたようだ。
45窟の復元があり、本物と違って撮影できる。
夕方に鳴沙山と月牙泉。鳴沙山は巨大な砂の山で、上ることが出来る。入口で膝まで覆うオレンジ色のカバーを借りることが出来る。砂に足を取られるが、縄ばしごが設けられており、それを利用すると楽に上ることが出来る。上からは敦煌の街を一望できる。
月牙泉は鳴沙山のくぼみにある池で、その名の通り三日月をしている。昔からあるそうだが、最近地下水が減少したせいか、小さくなってきてしまっているとのこと。
夕食は敦煌夜市の店で砂鍋。その名の通り砂で出来た鍋というが、普通の石の鍋に見える。ここに肉や野菜や麺が入っている。鶏、牛、豚、羊と肉は選ぶことが出来、せっかくなので羊を食べた。
食後は敦煌夜市。入口付近には夕食をとった食堂街があり、そこからは一直線にお土産物屋が並ぶ。どこも売っているものは似通っている。脇道に入ると野菜、ドライフルーツ、肉を売っているところもある。名物の干しぶどうは様々な種類が売られている。せっかくなので、大好物の殻付きアーモンドを購入。ただ、塩味だけではなく味がつけてあるようだった。
2015年9月24日(木)は主に敦煌郊外の観光。
古代の西の関所は玉門関と陽関があり、中国から出るときはシルクや茶を運んで陽関から出て、戻るときは玉を運んで玉門関から戻ったという。敦煌のホテルをバスで出発し、まずは玉門関に。これは漢の時代の関所で、四角い城壁が残されている。
この地に関所が設けられたのは、前に疏勒川が流れ、その先が山であるため、自然の境界となっていると同時に水が得られるからだったという。
朝で寒かったが空が青く澄んでいて気持ちが良かった。
漢の時代の長城跡。一定間隔で設けられていた烽火台が残っている。敦煌から長安(西安)まで、馬では半月かかるが、烽火の通信は60時間で到達したという。周囲には烽火の燃料に使った、草を泥で固めたものがごろごろ転がっている。
陽関近くの農園レストランの葡萄棚の下で昼食。周囲はシルクロードの雰囲気を感じさせるポプラ並木。葡萄は干しぶどうにも使われるものらしく、種がない。
玉門関と並ぶ関所。ここは烽火台くらいしか残っていないが、周囲は漢の時代の武器を復元していたり、テーマパークのように観光地化されている。
烽火台の先は急激に落ちる崖のようになっていて、眼前に荒野が広がる。ここに陽関があったものと思われ、古いものがいろいろ見つかるとのこと。
周囲にはいくつか泉があり、水が得られることがここに関所を設けた理由らしい。
敦煌に戻る途中、道沿いに映画撮影所がある。撮影のためのセットを遠くから撮影。反対側には太陽光発電所がある。これ以外にも、河西回廊には風力発電所もたくさんあった。
時間が早かったので、敦煌名物の夜光杯工場を訪問。夜光杯は近郊の石を削り出したもので、ワインを入れる足つきのものが本来の姿だが、日本酒のおちょこのようなものもある。薄いものほど高級で、ぶつけた時に出す音が高いものほど高級。ということで、石の質によって全然値段が違う。どんな鉱物かよく分からないのだが、磁石にくっつき、表面張力が強くて盛り上がるほど液体を入れることが出来る。
ホテルでしばらく休んだ後、スーパーマーケットに行って、お土産などを購入。
レストランに移動して敦煌最後の夕食。やたらと気が利くというか親切なウェイトレスだった。
ホテルに戻って、ホテル併設の飲み屋でツアーの人達やガイドの人達とビールと白酒さらに飲んでから就寝。
2015年9月25日(金)の朝に敦煌のホテルを出発、2008年に出来た敦煌駅へ。敦煌を思わせるパネルを前面に飾っている
9:30発の西安行きの寝台列車で出発。
陝西省(せんせいしょう)の省都であり、渭河平原、関中平原と呼ばれる山に囲まれた平野に位置する。中国を華北と華南に分ける位置にあり、古くから長安としていくつもの王朝の首都となってきた。現在では人口800万人の大都市。
河西回廊旅行の最終目的地として、2015年8月26日(土)に敦煌から到着し、1泊して日本へ帰国した。
2015年9月25日(金)の9:30定刻に敦煌駅を出発した寝台列車は、途中で遅れはじめ、張掖に到着した時点で1時間超の遅れ。食堂車で食事をしたり、車室で飲んだりしながらしゃべって過ごす。
朝起きると、車窓は一変しており、急峻な山の間を茶色い水が蛇行して流れている。この山が途切れると平原に出て、しばらくすると西安に着く。
結局西安駅には定刻より1時間ほど遅れて10:30頃に到着。
西安の城壁内の東大街にある大型ホテル。1泊で出発も早かったため、朝食は食べられなかった。
現在の西安は明時代の城壁に囲まれている。かつて唐の時代は外から外城、内城、皇城となっていたが、明時代の城壁は皇城の城壁の上に建っている。城壁は夜はライトアップされる。
街の中心には鐘楼と鼓楼が並んでおり、これも夜はライトアップされる。
甘粛省の河西回廊の都市を旅行してから訪れると、さすがに大都会であり、街だけではなく、女性の服装も化粧方法もやや洗練されているように感じる。
中国四大博物館の一つ。ちなみに他の四大博物館は、南京、北京、台北とのこと。
建物時代はコンクリートで作られているが、形は清の時代の建物を模している。
内部は原人の時代から、旧石器時代、新石器時代、殷、秦、漢、魏晋南北朝、隋、唐、それ以降と続くが、やはり西安という土地柄からか、秦、漢、隋唐の展示が充実しているように感じる。青銅器や唐三彩の展示は多かった。
急ぎ足の観光だったが、他の地域に既に行っていたからこそ面白いなと思ったものはいくつかあって、まずはペルシャの影響を受けた陶器の酒器。形だけではなく、金属製のペルシャの酒器にある、取っ手を留めるリベットも模していることから、その影響が確実視されているもの。
もう一つは仏像で、大きさは小さいが、光背の形や、裾が左右に跳ね上がるように広がっていて全体が△の中に収まっているところは、法隆寺の釈迦三尊像や救世観音像とそっくり。
唐三彩については、唐の時代はぽっちゃり型が美人とされていたことが明確にわかるほか、漢族風の容貌の人物に混じって、ソグド人の商人と思われる人物、ペルシャ人の傭兵と思われる人物も混じっていて、唐の国際性がよく分かる。
また、これも唐の時代のソグド人の墓と説明があったものだが、滋賀県のMIHO MUSEUMに保存されているというもの(まだ現物は見たことがない)とよく似ている。
大雁塔は玄奘三蔵法師が西域から持ち帰ったお経を収めるために作られた塔。専属の日本語ガイドが案内してくれる。
唐の時代のもので、もともとは石の色の灰色だったが、黄砂の影響で黄色くなってしまっている。中の階段は般若心経の文字数と同じ268段。よく見ると左側に傾いてしまっていて、元に戻すための工事が行われているらしい。
塔の周囲の建築物は新しく、最近作られたばかりのものもあった。
塔の下にはこれまで大きな功績のあった管長の墓が並んでいる。文化大革命の時代に寺を守った副管長の墓もあった。
現在の管長は28代目で、書の達人として知られている。飾られているものを見るとどの書体のものも素晴らしいことが素人目にも分かる。これは展示しているだけではなく販売もしていて、収益は寺のために役立てるとのこと。いろいろ新しい建物を建てているので大変なのかも。
昼食は精進料理。もともと今回の旅は野菜だけの炒め物などが多く、それほどギャップは感じなかった。一つの炒め物に入っていたソーセージもどきが少し特別だったくらいかも。
兵馬俑博物館は西安の郊外にある。途中、小さな小山が見えるが、これは自然の山ではなく、秦の始皇帝の陵墓だという。
兵馬俑に近づくと道沿いで盛んにザクロを売っている。名物らしいが、少し季節が早いので、別の場所で生産されたものだろう、とのこと。
兵馬俑博物館は普段混んでいるとのことだが、幸い?朝西安に着いた寝台列車が遅れたせいで夕方の見学だったため、比較的空いていた。
兵馬俑は、この地域の農民が、旱魃が続いたために井戸を掘っているときに偶然発見した。現在第一坑から第四坑まであり、そのうち第一坑から第三坑は体育館のように発掘現場を覆って公開されている。
まず、第一坑は兵士が並んでいて、これが一番有名。それぞれの兵士は実物の人間を模したとされ、一人一人顔つきが異なる。身長は180cmほどあり、北方民族である秦は身長が高かったためとされる。青銅や木の武器を持っていたとされるが、それは朽ちてしまったり、別に保存されたりしているので、並んでいる兵士は何も持っていない。そもそも発見されたときは倒れたり粉々になっていて、それを復元して並べてある。また、発見当時は色がついていたが、空気に触れると色が失われてしまった。焼いた後に色をつけただけであり、色をつけた後に焼いたものではないため。首、上半身、下半身は別々にして焼かれたものらしい。
ところどころ黒くなっている壁があるのは、漢の劉邦の軍が焼いたため。
第三坑は小規模だが、司令部であり、漢の劉邦の軍に荒らされていなかったことに価値がある。馬車と行者が居る。
第四坑は温室のように囲われているが、中に何もないし、入れない。秦の軍隊が反乱を起こしたため、完成することがなかったためという。
第二坑は四頭立ての馬の戦車が並んでいたが、保存のために埋め戻されている。そのため、通路の周囲にいくつかの展示がある。そもそも秦の軍隊が強かったのは、この戦車と弓を使っていたからとのこと。
夕食は餃子。蒸し餃子がほとんどだが、焼き餃子、水餃子も出てくる。ウェイトレスは日本語で餃子の内容を説明してくれる。
冬虫夏草の飲み物や、朝鮮人参酒のサービスがあり、これは食後に販売されていた。
バスで移動して、西安の中心に並ぶ鐘楼・鼓楼を車窓に見てからホテルにチェックイン。二日ぶりにシャワーを浴びた。
その後、少し夜の西安の街を歩いてみたが、これで旅行もおしまい。
2015年9月27日(日)、朝4:30に起床して、5:30に西安のホテルをバスで出発、西安咸陽空港に6:20頃到着。
西安咸陽空港の荷物のチェックインはやたら厳しくて、「預ける荷物にバッテリーが入っている」と言われて、何度もX線検査をされた。入っていないのに。手荷物検査でも、全て金属は外して、いつも引っかからないのに、ボディーチェックされた。
中国国際航空CAのA321-200で8:30に西安咸陽空港を出発、結構早く着陸態勢に入ったと思ったが、着陸まで時間がかかり、さらに10:00過ぎに着陸したのにタキシングが長く、バス移動になって、10:30ごろに北京国際空港に到着。
ここで出国審査を行うが、その後の手荷物検査もX線を二回かけられた。ツアーで同行した人はバッテリーの容量が不明(大きすぎる可能性がある)ということで、Wi-Fiルーターを没収されてしまっていた。何で?
中国国際航空CA167のA321-200で北京国際空港を13:25に出発。中秋の名月と言うことで、機内の食事の後に月餅が配られた。定刻よりやや早い17:50に成田空港に着陸、窓から月が見えた。スカイライナーで帰宅。
このページに関するご要望は高谷 徹(toru@takayas.jp)まで